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宇宙の真理 [『浄土和讃』を読む(その155)]

(2)宇宙の真理

 これらの文はいずれも涅槃の世界を言い表そうとする中に登場してきます。涅槃の世界は「いろもなし、かたちもましま」せんから、「こころもおよばれず、ことばもたへた」ところです。宇宙の窮極の真理(真如実相)はことばが及ばないということでしょう。しかしそれでは「無明の大夜」の中にいるわれら衆生には縁のないまま終ってしまいますから、宇宙の真理そのものが「一如宝海よりかたちをあらはして」法蔵菩薩として名のり出たというのです。
 浄土三部経ではこのような説き方はしていません。『無量寿経』には、むかし世自在王仏のもとで法蔵菩薩が五劫思惟して四十八の誓願をたて、兆載永劫の修行によりそれを成就して十劫のむかしに阿弥陀仏となられたと書かれています。法蔵菩薩とは、もと国王で、世自在王仏の説法を聞いて菩提心を起こし、国も王位も捨てて沙門となったとありますから釈迦をモデルとしているのでしょうが、とにかくひとりの人間が菩薩として修行し仏となったという説き方です。
 親鸞はこの法蔵菩薩の出現に深い意味を読み取ろうとします。彼は『法華経』から『無量寿経』を読んでいると言えます。『法華経』には久遠の仏が仮の姿を現わすという思想があり、親鸞はそれをもとにして、久遠の仏が法蔵菩薩を名のって現れたと読むのです。ここには他の諸師には見られない親鸞の独創性があり、親鸞の書くものに哲学的な深みが感じられるのはこのようなところからでしょう。すでに第55首に「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」とありましたが、久遠の弥陀が法蔵菩薩として現れるというのは、ぼくらの哲学的興味をかきたてるものがあります。
 さて、この和讃で気になるのは「無明の大夜」と「法身の光輪」との関係です。

タグ:親鸞を読む
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