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法性法身(ほっしょうほっしん)と方便法身 [「『証巻』を読む」その69]

(6)法性法身(ほっしょうほっしん)と方便法身

法性法身とは仏がさとった真理そのもので色も形もありませんが、方便法身は仏が衆生済度のために取るさまざまな姿のことです。親鸞はそれについて『唯信鈔文意』でこう述べています、「法身(法性法身です)はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ」と。仏の真理そのもの(真如、一如)は「いろもなし、かたちもましまさず」で、われらには及びもつきませんから、法蔵菩薩という姿をとり、不可思議の大誓願というかたちを示してわれらを済度してくださるということです。

さてこの二つの法身の関係について曇鸞は「法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は、異にして分つべからず、一にして同じかるべからず」と述べています。

法性法身から方便法身が出てくるのですから、前者が因で後者が果であると言えますが、これは普通の原因・結果の関係とはまったく異なります(一般に仏教の因果はいわゆる原因・結果とは似て非なるものです)。われらが普通につかっている原因・結果の概念では、原因とされるものと結果とされるものは別ものです。新型コロナウイルスが原因となって重篤な肺炎という結果を引き起こしますが、原因としてのウイルスと結果としての肺炎はまったく別ものです。しかし法性法身と方便法身は、「法性法身によりて方便法身を生ず」と同時に「方便法身によりて法性法身を出す」という関係にあり、この二つは離れて存在することができません。法性法身のあるところ、かならず方便法身があり、方便法身のあるところ、かならず法性法身があるのであって、どちらか片方だけが存在することはありません。

それを曇鸞は「この二の法身は、異にして分つべからず、一にして同じかるべからず」と述べているのです。仏教の縁起の法は「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と表現されますが、これは同時に「かれあるに縁りてこれあり、かれ生ずるに縁りてこれ生ず」ということであり、「これ」と「かれ」は切り離すことができないということです。


タグ:親鸞を読む
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