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諸仏とは誰? [『教行信証』「信巻」を読む(その62)]

(11)諸仏とは誰?


ここで考えておきたいのは諸仏と言われるのはいったい誰のことかということです。浄土教典の説き方では、この娑婆世界に釈迦仏がおられるように、十方世界に諸仏がおられるとされます(三千大千世界の一つひとつ世界に一仏がおられます)。としますと諸仏はわれらとは縁遠い存在のように感じられますが、その一方で、ここに引用されている『小経』の文では、十方の諸仏が「あまねく三千世界」に向かい「なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし」と説かれるとされます。それは「衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて」のことであるというのです。としますと十方世界の無量の諸仏はわれらと無縁どころではありません。


ここからは、あたかも第九の合唱のように、釈迦を指揮者として、あらゆる世界の諸仏たちが「おのおの舌相を出だして」、「一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり」と声を上げ、われらはその合唱を聞かせていただいているというイメージが生まれてきます。これが「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」という第十七願のイメージでしょう。十方の諸仏は「ともに同心同時におのおの舌相を出して」南無阿弥陀仏を称え、弥陀の本願を一切衆生に届けているのです。


あらためて確認しておきたいと思いますが、弥陀の「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」は直接われら衆生に届けられるわけではありません。「無量のいのち」は直接われら「有量のいのち」の前に姿を現すことはできませんから。それは名号の「こえ」となってわれらのもとに送られてくるのであり、そしてその「こえ」は十方の諸仏の口から発せられるのです。としますと十方の諸仏とはわれらに名号の「こえ」を届けてくれるお方に他ならないということになります。どなたかから南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえてきたら、その方がわれらにとっての仏であるということです。親鸞にとって法然が仏です。ご本人は「仏なんて滅相もない」と言われることでしょうが。


 (第6回 完)



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