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継時か同時か [「『正信偈』ふたたび」その68]

(8)継時か同時か

よくある解釈では、まず信心を得て正定聚となり、しかる後に往生するという時間の順序にしたがって、近門(信心)、大会衆門(正定聚)、宅門(往生)というように配置していくのですが、曇鸞=親鸞流の解釈では、信心を得ることが取りも直さず正定聚となることであり、それがまたそのままで往生することであるというように、すべてが同時的な出来事とされます。正信偈では「功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲」と言われ、さらに「蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなはち真如法性の身を証せん」と詠われますから、一見そこに時間の流れがあるかのように思えますが、この「帰入すれば」、「至ることを得れば」という古語の表現は、「AをしたならばBをする」という意味ではありません。

接続助詞の「ば」は動詞の未然形につくときは仮定条件「もし…ならば」という意味ですが、已然形につくと確定条件「すでに…だから」という意味になります。いまの「帰入すれば」も「至ることをうれば」も未然形ではなく已然形についていますから、「すでに帰入しましたから」、「すでに至ることを得ましたから」ということで、功徳大宝海に帰入する」ここと「かならず大会衆の数に入ることを獲」ること、「蓮華蔵世界に至ることを得る」ことと「すなはち真如法性の身を証す」ことの間に時間の経過はなく、同時的につながっていることを表しています。つまりすべては信心が得られたときの出来事であるということです。

さてここからもう一つ大事なことが出てきます、自利(すなわち往相)と利他(すなわち還相)の関係です。近門から屋門までは自利で、園林遊戯地門が利他ですが、よくある解釈では近門と大会衆門は現生、宅門以下は来生と割り振られますから、現生では自利で、利他のはたらきはいのち終わってからのこととなります。今生では信心し念仏申して正定聚となり、来生に往生して還相の菩薩としてはたらくという構図ですが、さてこの理解で得心がいくでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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