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自然のやうをしらせんれう [正信偈と現代(その135)]

(6)自然のやうをしらせんれう

 「わがいのち」は紛れもなく「わがいのち」であり、同時に「わがいのち」ではない、というのは、何度も言いますように、どうしようもない矛盾ですから、普通の感覚ではついていけません。でも、「なんじのいのちは、なんじのいのちであると同時に如来のいのちである」とよびかけられますと、そこに矛盾を感じることはありません。不思議なことに、自分で、「わがいのち」は「わがいのち」であると同時に「如来のいのち」であると言いますと、先と同じく矛盾となりますが、「なんじのいのちは云々」とよびかけられることで矛盾ではなくなるのです。ここに「物語的な語り」のミソがあります。
 さて、みずから知るのではなく、どこかからよびかけられる、と語るためには、よびかける主体を設えなければならず、必然的に物語となります。その主体というのが阿弥陀如来であるという秘密を親鸞は「自然法爾」を語るなかで明かしています、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせんれう(料、手立ての意)なり」(『末燈鈔』第5通)と。「自然のやう」とは、みずからはからってではなく、むこうからはからわれて、という意味です。要するに他力ということ。弥陀仏とは、真実はみずから知るのではなく、向こうから気づかせてもらうしかないということを言うために設えられた主体であるということです。
 かくして「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」ということばの意味がいよいよ明らかになりました。「信心発すれば」とは、みずから知るのではなく、向こうからよびかけられて、ということです。みずから知ろうとして「生死すなはち涅槃なり」と証知することはきわめて困難です。どうしようもない矛盾に逢着するからです。でも、向こうから「なんじのいのちは云々」とよびかけられることによって、「わがいのち」は「わがいのち」でありながら実は「如来のいのち」であることに気づかされるのです。親鸞が「証知す」とせずに「証知せしむ」と使役にしているのはゆえあることです。

タグ:親鸞を読む
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