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横さまに超える [はじめての『尊号真像銘文』(その127)]

(4)横さまに超える

 横超と竪超(これが「仏心・真言・法華・華厳等」です)とを見比べてみましょう。どちらも超、すなわち頓とされますが、それぞれで意味することが異なります。竪超の超は「この娑婆世界にして、この身にてたちまちに仏になる」という意味ですが、横超の超はそうではありません。浄土門では今生において仏になることはできません。「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと、この條、もてのほかのことにさふらふ。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感得なり」(『歎異抄』第15章)と唯円が釘を刺している通りです。
 では横超とは何か。横超ということばそのものは善導『観経疏』にこう出てきます、「道俗時衆等おのおの無上の心をおこせども、生死はなはだいとひがたく、仏法またねがひがたし。ともに金剛のこころざしをおこして、横に四流(四つの激しい流れということで煩悩を指します)を超断せよ(横超断四流)」と。そして親鸞はこの横超断四流について、次のように注釈しています、「断といふは、往相の一心を発起するがゆへに、生としてまさにうくべき生なし、趣(ところ)としてまたいたるべき趣なし。すでに六趣(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)四生(胎生・卵生・湿生・化生)因亡し、果滅す。かるがゆへに、すなはち頓に三有(欲界・色界・無色界)の生死を断絶す」(「信巻」)と。
 このように横超とは、善導のことばでは「横に四流を超断」し、親鸞のことばでは「三有の生死を断絶」するというのですから、「この身にてたちまちに仏になる」のとほとんど区別がつかないように思えます。唯円はその違いをはっきりさせるために、『高僧和讃』の「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光照護して、ながく生死をへだてける」という和讃を持ち出し、「ながく生死をへだてける」というのは「信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかればながく生死をばへだてさふらふ」ということだと諭しています。
 「ながく生死をへだてける」とは「仏になる」ことではなく、「仏になることがさだまる」こと(これが正定聚不退)です。

タグ:親鸞を読む
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