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浄土門の優位性 [「信巻を読む(2)」その79]

(9)浄土門の優位性

仏教の真理は「無我」とか「縁起」ということばで言い表されますが、それを平たく日常のことばに置き換えますと、「われらは大いなる力により生かされている」となります。われらは「わたしのいのち」を「わたしの力」で生きていると思っていますが、実は見えない力により生かされているということです。「わたしのいのち」や「わたしの力」とは仮設されたものにすぎず実体ではないというところに着眼するとき、「無我」という教説が生まれ、「見えない力により生かされている」というところに着眼するとき、「縁起」という教説になります。

さて問題は「われらは大いなる力により生かされている」という真理をどのようにして得ることができるかということです。それをこちらから得ることができるのか(われらがそれをゲットできるのか)、それともそれはむこうからやってきて、その「気づき」が与えられるのか(われらはそれにゲットされるのか)ということです。こちらから得るということは、「わたしの力」(自力)によるということに他なりませんが、「大いなる力(他力)により生かされている」ことを自力で知るというのでは平仄があいません。「他力により生かされている」ことは他力により気づかされるしかありません。

浄土の教えではそれを本願と名号ということばで言い表します。本願とは、われらにはもとから「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」がかけられているということであり、名号とは、その「ねがい」が「いつでも帰っておいで」という「こえ」として送り届けられているということです。そのようなかたちで、「大いなる力で生かされている」という真理がむこうからやってきて、われらはそれに気づかされることが表現されているのです。天台宗や華厳宗、禅宗などでは真理を「悟る」と言いますが、結局のところ真理はそれに「気づく」しかなく、そもそも釈迦の菩提樹下の「悟り」もまた「気づき」に他ならないと言わなければなりません。

ここに浄土門の優位性があるのです。


タグ:親鸞を読む
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