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他力ということ [『歎異抄』ふたたび(その5)]

(5)他力ということ

 仏法は文字ではなく口頭で伝授されなければならないということは、仏法はこちらからゲットするものではなく(そんなことはできるものではなく)、逆に、むこうから仏法にゲットされるのだということです。これが他力ということに他なりませんが、これはなかなか肚にストンと落ちてはくれません。どうしてかといいますと、われらが生きている世界はみたところ隅から隅まで自力で満たされていて、他力などというものはどこにも見えないからです。
 何を言っているんだ、他力なんてぼくらの周りにいくらでもゴロゴロころがっているじゃないか、と言われるかもしれません。何かを知るということを考えてみたまえ。ぼくらは自力でものを知ることもあるが、しかし多くは他の人から教えられて知ったことではないか。これひとつでも、ぼくらは自力で生きているのではなく、他力の支えがあってこそであるのは明らかではないか、と。確かにわれらは一人では生きることができず、他の多くの人の支えが必要です。しかし、ここで考えなければならないのは、どれほど多くの人の支えがあっても、生きるのはこの「わたし」であり、他の誰でもないということです。
 もうだいぶ前になりますが、『こんな夜更けにバナナかよ』という本を読んだ時の衝撃を思い出します。筋ジスの患者が大勢のボランティアに支えられて生きていく姿が実に生き生きと描かれていて、人間が生きるということの原点を考えさせられる傑作です。この主人公はすぐ傍で支えられていないと一日も、いや数時間も生きることができない状況にあるのですが、時にはそんなわがままを言っていいのかと思えるような要求(夜更けにバナナ!)を平気で出しながら、しかしそれを飲み込み支えてくれるボランティアとの間に魅力的な関係をつくりだしていくのです。
 ここから分かりますのは、多くのボランティアの支え(他力)があってはじめて彼の生は成り立っていますが、しかしそのような支援を実現しているのは実に彼の力(自力)だということです。彼が自分への支援を要求し、その要求に応える人たちが集まるのは彼自身の力であるということ、その力こそがすべての原点になっているということ、このことに思いを致したいのです。

タグ:親鸞を読む
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