SSブログ
『歎異抄』を聞く(その1) ブログトップ

 [『歎異抄』を聞く(その1)]

          第1回―耳の底にとどまるところ(序)

(1)序

 みなさん、こんにちは。これから『歎異抄』を読み、そこから親鸞の地声を聞きとっていきたいと思います。かなり前に『歎異抄』を取り上げたことがありますが、さてそれからどれだけ聞く力がつきましたことやら。

 ひそかに愚案をめぐらして、ほゞ古今を勘(かんが)ふるに、先師の口伝(くでん)の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふ。幸に有縁の知識に依らずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて、故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底にとどまるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと。云云

 (現代語訳) ひそかに思いをめぐらし、聖人ご在世の頃とこの頃をくらべてみますに、聖人が親しく教えて下さった真実の信心と異なることが説かれていて、嘆かわしく思われ、また後につづく人たちに疑いがおこることを恐れます。幸いにもご縁のある善知識に依らずに、どうして易行の一門に入ることができましょうか。全く自己流の考えで他力の宗旨を乱すようなことがあってはなりません。そこで、故親鸞聖人が語ってくださったことばを、耳の底に留まるまま、いささかここに記しておこうと思います。ひとえに、こころを同じくする人たちの不審の念がなくなるようにと思ってのことです。

 『歎異抄』冒頭の序文です。著者が何のためにこの書物を書いたのかを述べています。ところが不思議なことに、この書物のなかほどに(第10章の後半)、また同趣旨の文があります。

 そもそもかの御在生のむかし、おなじこゝろざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏まうさるる老若、そのかずをしらずおはしましけるなかに、上人のおほせにあらざる異義どもを、近来はおほくおほせられあふてさふらふよし、つたへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。

 (現代語訳) さて聖人がご在世のむかしに、おなじこころざしをもって、はるかな京まで足を運び、信心を一つにして未来の報土に思いを寄せた仲間たちは、一緒に聖人の教えをうけたまわることができましたが、その人たちについて念仏を申している数知れぬ老若の中に、聖人の仰せとは異なることをこの頃さまざまに言われているらしいとお聞きしております。それらの誤った考えの一つひとつを見てまいりましょう。

タグ:親鸞を読む
『歎異抄』を聞く(その1) ブログトップ