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『唯信鈔文意』を読む(その150) ブログトップ

不思議な転回 [『唯信鈔文意』を読む(その150)]

(12)不思議な転回

 「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」(信巻)と言わざるをえないのが親鸞です。穢土を厭い、浄土を願うこころに偽りはなくても、それがすぐに「愛欲の広海」に沈み、「名利の大山」に迷い込んでしまう。そしてそのことを「はづべしいたむべし」と思った尻から、またもや愛欲や名利の世界のただ中にいる自分に気づくということの繰り返し。
 そんな親鸞としては「まことのこころ」は煎じて飲もうにもどこにもないと言わざるをえません。愛欲や名利のこころを「ひるがへして」という思いはあっても、そう思ったすぐあとにまた愛欲や名利のこころにおぼれてしまうのです。「いつわり、かざり、へつらうこころ」を反省しても、すぐまた同じことを繰り返すのでは「ひるがへして」ということにはならないでしょう。やはり「まことのこころ」はないと言わなければなりません。
 親鸞の言うことは一見極端で、ことの真相からずれているようですが、その実、これこそぼくらの偽らざる姿ということになりそうです。
 さてしかし、そうとしますと、三心のうち「一心かけぬればむまれずといふ」のですから、ことは重大です。どれほど浄土を願っても、「まことのこころ(至誠心)」がないようでは往生できないと絶望するしかないのでしょうか。ところがここで不可思議な転回が起こるのです。
 ぼくらのうちに「まことのこころ」などどこにもないと気づかされたそのとき、「まことのこころ」は如来から回向されていることに気づくのです。「一心かけぬればむまれず」となったそのときに、一心がすでに与えられていることにふと気づく。「この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつわらず、へつらわず、実報土のたねとなる信心なり」という一文はその気づきを表現しているのでしょう。

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