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悪の海抜ゼロメートル地点 [はじめての『高僧和讃』(その104)]

(6)悪の海抜ゼロメートル地点

 あの事件は多くの人にナチスを思い起こさせました。犯人自身が「ヒトラーの思想が降りてきた」と言っていたそうです。重い障害をもって介護されているのは社会にとって損失であり、障害者自身にとっても不幸だから、自分が社会や本人に代わって彼らのいのちを奪おうというのです。秋葉原の事件も大量殺人という点では共通していますが、無差別に殺しているということではこの事件と異なります。この事件は重度の障害をもっている人を選んで殺しているのです、しかも正当な行為をしているとの意識のもとに。そこが人々に大きな衝撃を与え、とんでもないことが日本にも起こったと眉を顰めさせました。
 ひとり一人の「かけがえのないいのち」を、生きるに値するいのちと、そうではないいのちに選別することは許されることではありません。それは絶対に譲れない。とりわけ犯行後の犯人の不気味な笑みを見せられますと、何というヤツだと思わざるをえません。そこから彼を普通ではない人間、鬼か蛇か、何か特別な存在と見て、人間の埒外に押し出してしまいたくなります。自分とはまったく違う人間であると。さてしかし浄土の教えの偉大さは、自分のなかにも彼がいることに気づかせてくれるところにあるのではないでしょうか。自分のなかにもヒトラーはいると。
 自分もいのちを選別しているのではないか。たとえば妊婦が出生前診断を受けて、染色体に異常があり障害児が生まれる可能性が高いと判定されたとき、どうするか。そのとき、生きるに値するいのちと、そうではないいのちを選別しないか。これはきわめて困難な問題で一筋縄ではいきませんが(生命倫理学の大きな課題です)、もっと単純な問題として、ぼくらは日々多くの生きものを食べています。そのとき、いちいち意識しているわけではありませんが、どこかでこいつはいのちを奪われてもいいのだと判定しているに違いありません。
 特別な悪人がいるのではなく、みな一様に悪人であるということ。みな悪の海抜ゼロメートルにいるということです。みな海抜ゼロメートルの悪人であると気づくこと、これが本願他力の気づきに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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