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即の時に大乗正定聚の数に入る [「『証巻』を読む」その4]

(4)即の時に大乗正定聚の数に入る

さて煩悩の炎が完全に消えるのは「わたしのいのち」が終わった後であり、したがって涅槃の境地は来生に期さざるをえないことは、第十一願のなかにはっきり反映されています。「国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」というように、「滅度に至る」の前に「かならず」の一語がおかれ、「滅度に至る」のは「いま」ではなく「先のこと」であることが示されています。かくして「(今生に)本願を信じ念仏を申さば(来生に)仏になる」ことがはっきりしたわけですが、さてしかし、そうしますと今生では信心し念仏しながら、いのち終わった後に仏になることをただ待つだけなのでしょうか。

そうではないというのが親鸞の考えです。それが本文の中で「また証大涅槃の願と名づくるなり」の後、「しかるに」とつづけていることにあらわれています。すなわち第十一願の本質は、一見したところ「大涅槃を証する」ことにあるように思われるが、さにあらず、ということです。『教行信証』の解説本を見ますと、この「しかるに」を「さて」と解しているのがほとんどですが、それでいいでしょうか。そうではなく、親鸞は逆接の意味を込めて「しかるに」と述べているのに違いありません。この願は「必至滅度の願」とよばれ、また「証大涅槃の願」とよばれるが、「しかるに」この願の本質はそこにあるのではなく、「往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入る」ことにあるということです。

救いを来生の滅度に待つことはない、今生において「往相回向の心行を獲れば」、すなわち信心し念仏すれば、「即の時に大乗正定聚の数に入る」。これこそが救いであるというのです。そのことを何よりもはっきり言明しているのが『親鸞聖人御消息』の第1通で、こうあります、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。…真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と。臨終の来迎を待つことがないように、来生の滅度を待つことはありません、もうすでに正定聚になっているのですから。


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