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竪と横 [「信巻を読む(2)」その3]

(3)竪と横

ここで注目したいのは「竪と横」という表現です。自力を「竪」、他力を「横」と言い表す発想はどこから来ているのでしょう。

思いつくのは『大経』下巻に「かならず超絶して去(す)つることを得て安養国に往生して、〈横に〉五悪趣を截(き)り、悪趣自然に閉じ、道に昇るに窮極(ぐうごく)なからん」(かならずこの迷いの世界を超えて安楽国に往生し、横さまに五悪趣を断ち切って、もはや迷いの世界に戻ることなく、この上ない悟りに至ることができる)と述べられていること、また少し前に引用された『観経疏』「玄義分」に「ともに金剛の志を発して、〈横に〉四流(欲暴流・有暴流・見暴流・無明暴流、煩悩のこと)を超断せよ」とあることです。これらの表現から「よこさま」とは通常の理(ことわり)を超えることで、それに対する「たてさま」は世の普通のありようを指すことが分かります。

世の普通のありようとは、何をなすにも定められた手順をひとつずつ踏んでいくということで、それは階段を一段一段のぼるようなものですから「たてさま」と言えるでしょう。対する「よこさま」は、そうした手順や階段をひとっ跳びに超えてしまうということで、これは世のあるべき姿に背くことと言わなければなりません。字書で「横」を引きますと、横暴、横柄、横着、横領、横車など否定的なことばばかりが出てきます。そして「たてさま」に一歩一歩歩むのが自力のありようで、「よこさま」に時間を跳び越えるのが他力のありようです。われらが自力で何かをしようとしますと、そこにはおのずから定められた手順があり、それを「たてさま」に一つ一つクリアしていかなければなりません。それに対して他力とは、気がついたら不思議な力で「よこさま」に超えていたという経験です。

「たてさま」に進むことと「よこさま」に超えることの違いをもう少し考えつづけたいと思います。


タグ:親鸞を読む
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