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第8回、本文2 [「『証巻』を読む」その77]

(4)第8回、本文2

器である浄土も、そこに住む衆生である仏・菩薩も清浄であるとした上で、曇鸞は一つの問いを出し、それにみづから答えます

問うていはく、衆生清浄といへるは、すなはちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人天、この清浄の数に入ることを得んやいなやと。

答へていはく、清浄と名づくることを得るは(得れども)、実の清浄にあらず。たとへば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘とす。凡夫の出家のものをまた比丘と名づくるがごとし。また灌頂(かんじょう)王子(おうじ)理想的な王である転輪王の王子)初生の時、三十二相を具して、すなはち七宝のために属せらる(通常は「七宝の属するところとなる」)。いまだ転輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。それかならず転輪王たるべきをもつてのゆゑに。かのもろもろの人天もまたまたかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と名づくることを得るなりと。

衆生の清浄とは仏・菩薩が清浄ということであるとした上で、では「かのもろもろの人天」も清浄と言っていいだろうかという問いですが、さて「かのもろもろの人天」とは誰を指しているのでしょう。「かの」とありますから、少し前にそれが指示しているものがあるのだろうと遡ってみますがなかなか見つからず、かなり前の「未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す」という『浄土論』の文にようやく行き当たります(第5回、本文2)。「かのもろもろの人天」とは、この文の「未証浄心の菩薩」のことを指しているに違いないと思われます。

「未証浄心の菩薩」とは、まだ八地(浄心の菩薩)に至っていない初地から七地の菩薩のことで、菩薩としてのはたらきをするのにまだ自他へのとらわれ(作心)が残っているもののことです。それに対して八地以上になりますと、還相の菩薩としてもう作心はなく自在無碍のはたらきができるようになるとされます。で、ここで問われているのは、未証浄心の「かのもろもろの人天」も、八地以上の菩薩と同じように清浄であると言っていいのかということです。曇鸞の答えは、「かのもろもろの人天」は、いまだ清浄法身を得てはいないが、もう得たにひとしいと言えるということです。


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娑婆と浄土 [「『証巻』を読む」その76]

(3)娑婆と浄土

さて仏・菩薩は清浄ですから、仏国土もまた清浄ですが、われら衆生は煩悩に穢れていますから、娑婆もまた不浄です。としますと、こちらに不浄な娑婆があり、あちらに清浄な仏国土があるということになるのでしょうか。そしてこちらには煩悩に穢れた衆生がいて、あちらには穢れのない仏・菩薩がいるということでしょうか。伝統的な浄土教においてはそのような図式が描かれてきましたが、この二世界説をはっきりと覆したのが親鸞であることはこれまで繰り返し述べてきた通りです。では娑婆と浄土、凡夫と仏・菩薩はどのような関係にあるのか、重複を厭わず、その要点を述べておきましょう。

娑婆と浄土という二つの世界があるのではありません、世界はいま眼前に広がるこの世界ただ一つです。さて、この世界は不浄の娑婆であると気づくとき、はじめてこの世界が娑婆となってあらわれます。その気づきがなければ娑婆という世界はどこにも存在しません。そして、ここが肝心要ですが、この世界は娑婆であると気づいたとき、その人は同時に浄土の存在にも気づいています。それは、ここは闇の世界だと気づいたとき、その人は光の存在にも気づいているのと同じです。光の存在に気づいていない人は、逆さまになっても、ここは闇の世界だと気づくことはありません。毎度同じ譬えで恐縮ですが、生まれてこのかた光に遇ったことのない深海魚は、ここが闇の世界だと気づくことはありません。その深海魚にとって、ここは光の世界でないのはもちろん、闇の世界でもなく、ただのノッペラボーです。

さて、この世界は不浄の娑婆であると気づいた人は、同時に浄土の存在に気づいていると言いましたが、それはどこにあるのでしょう。それはこことは別のどこかであるとしてしまいすと、またもや二世界説に舞い戻ってしまいます。そうではなく、浄土は気づきの光として「いまここ」にあります。不浄の娑婆も気づきとして「いまここ」にあるように、浄土もまた気づきとして「いまここ」にあるのです。そのことを親鸞は『末燈鈔』の第3通で「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と言っています。しかし、浄土の気づきのない人にとって、この世界は浄土でないのはもちろんのこと、不浄の娑婆でもなく、ただのノッペラボーです。


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器と衆生 [「『証巻』を読む」その75]

(2)器と衆生

ここでは器は仏国土、衆生は仏・菩薩を意味しますが、それをより一般化して器を世界、衆生はそこに住む人間と理解して考えましょう。

曇鸞は器と衆生の関係を食器とそこに盛られる食べ物の関係に譬えて、不浄な食器に清浄な食べ物を盛れば食べ物も不浄となり、逆に、不浄な食べ物を清浄な食器に盛ると食器も不浄になると言います。分かりやすく印象的な譬えですが、それで言いますと、不浄な世界に清浄な人間が住めば人間も不浄となり、逆に、不浄な人間が清浄な世界に住めば世界も不浄になることになります。人間と世界は一体不離であって、「かならず二つともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ」ということです。

さてこの「人間と世界は一体で切り離すことができない」という考え方のもつポテンシャルに思いを潜めたいと思います。近代の主要な潮流は人間と世界を切り離す方向に動いてきたと言えます。その嚆矢とも言うべきものがデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」で、彼は精神としての「人間(われ)」と、物体としての「世界」(この中には人間の身体も含まれます)を明確に分けました。そして両者の関係は「人間(われ)」が「世界」を支配するというものです。「こころ(精神)」と「もの(物体)」があり、前者が後者をコントロールしているという二元的な構図です。この構図が近代から現代へと受け継がれ、われらの中に定着しています。

それと対照的なのが仏教の「あらゆるものは縦横無尽につながりあっている」という縁起の思想です。「こころ(人間)」あるに縁って「もの(世界)」があり、同時に、「もの(世界)」があるに縁って「こころ(人間)」があり、両者はひとつにつながりあっているという見方です。「こころ」のありようによって「もの」のありようが変化しますが、逆に、「もの」のありようにより「こころ」のありようが影響を受けます。ですから「こころ」が不浄であれば「もの」もまた不浄となり、また、「もの」が不浄であれば「こころ」もまた不浄になります。


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第8回、本文1 [「『証巻』を読む」その74]

第8回 畢竟じてまさに清浄法身を得べし

(1)  第8回、本文1

浄入願心の章のつづきです。

〈この清浄に二種あり、知るべし〉(浄土論)といへり。上の転入句のなかに、一法(一法句)に通じて清浄(清浄句)に入る、清浄を通じて法身(無為法身)に入る。いままさに清浄を(わか)ちて二種を出すがゆゑなり。ゆゑに知るべしといへり。

〈なんらか二種。一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、(さき)に説くがごときの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向に説くがごときの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄と名づく。かくのごときの一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。それ衆生は別報(仏・菩薩の各別の業による各別の果報)の体とす、国土は共報(ぐうほう)仏・菩薩の共通の業による共通の果報)(ゆう)はたらきとす。体用一ならず。このゆゑに〈知るべし〉。しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず(通常は「諸法は心をもつて成ず。余の境界なし」と読む。器も衆生も法蔵菩薩の願心から生まれたもの)。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず(異なるものではない)。すなはち義をして分つに異ならず(意味の上から分けるが、実際に異なるわけではない)、同じく清浄なり。器は用なり。いはくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆゑに、名づけて器とす。浄食(じょうじき)に不浄の器を用ゐれば、器不浄なるをもつてのゆゑに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用ゐれば、食不浄なるがゆゑに、器また不浄なるがごとし。かならず二つともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもつて一つの清浄の名、かならず二種を(せっ)す。

因である法蔵の願心が清浄であるがゆえに果である浄土も清浄ですが、その清浄に器世間清浄と衆生世間清浄の二つがあることが説かれます。器世間とは仏国土のことで、衆生世間とは仏・菩薩をさします。そして仏・菩薩はそれぞれ別体(別報の体)ですが、仏国土は仏・菩薩が共通して受用するもの(共報の用)という点で両者は異なります。しかし、どちらも法蔵菩薩の清浄な願心を因として生まれたものですから、その意味では異なるものではないと言っているのです。


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如来よりたまはりたる信心 [「『証巻』を読む」その73]

(10)如来よりたまはりたる信心

『歎異抄』の後序に紹介されているエピソードを手がかりにしましょう。まだ承元の法難がやってくる前の吉水の草庵でのことです、「親鸞、御同朋の御中にして御相論のこと候ひけり」とあります。それは親鸞が「善信(親鸞です)が信心も、聖人(法然です)の御信心も一つなり」と述べたことで、「勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまふ」ことになったという出来事です。この人たちにしてみれば、まだ念仏門に入って間もない親鸞が、もう念仏の道を歩んで何十年という法然聖人とその信心がひとつであるなどということはありえないということでしょう。しかし親鸞は「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。往生の信心においては、まつたく異なることなし、ただ一つなり」と主張して折あいがつかず、結局、法然聖人の裁断を仰ぐことになります。

法然聖人の答えはこうでした、「源空(法然です)が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり」。ここに還相の菩薩の真実の智慧がきらりと輝いています。

親鸞にとって法然は「一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」(『論註』)はたらきをする還相の菩薩ですが、しかし法然にとって、自分の信心も親鸞の信心も「如来よりたまはりたる信心」であり、自分の力で親鸞に信心を授けているわけでは毛頭ないということです。本願を信じ念仏を申すようになるのは、ひとえに弥陀の本願力によるのであり、自分が自分の力で人を教化して仏道に向かえしめているのはない、これが「作にあらず」ということです。そして「作にあらず」であるからこそ、よく「一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」ことになるのであり、したがって「非作にあらず」です。これが菩薩は「作にあらず非作にあらざる」ということです。

法然としては「如来よりたまはりたる信心」を慶び、その慶びを人に語っているだけですが(作にあらず)、それを聞いた親鸞は、そのなかから如来の招喚を受けたのです(非作にあらず)。

(第7回 完)


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作にあらず非作にあらざる [「『証巻』を読む」その72]

(9)作にあらず非作にあらざる

中観派の曇鸞ならではのきわめて抽象的な議論が展開されています。「一法句とは清浄句であり、そしてそれは真実の智慧であり、また無為法身である」という『浄土論』のことばを解きほぐそうとして、まず真実の智慧について、それは「実相(真如)の智慧」であるから無知であると言います。この無知というのは、分別する知ではないということで、真実の智慧(真智)は無分別智であるということです。そして「無知のゆゑによく知らざることなし」と言います。また無為法身については、それは「法性寂滅なるがゆゑに法身は無相なり」とし、「無相のゆゑによく相ならざることなし」と言います。無知であるからこそよく知ることができ、無相だからこそさまざまな相をとることができるということ、ここにこの段の核心があります。

これまでの流れをふり返っておきますと、浄土の荘厳は法蔵菩薩の願心を因とするのであり、浄土の国土・仏・菩薩のすばらしいありようはみな法蔵菩薩の願心が表現されたものであることが説かれてきました。いまは還相回向がテーマですから菩薩に焦点を合わせますと、還相の菩薩のすぐれたはたらきもまたその本をたどれば法蔵菩薩の願心を因とするということです。そしてここでその還相の菩薩のすばらしさをあらわすものとして、菩薩の智慧は真実の智慧であること、菩薩の身は無為法身であることが述べられ、真実の智慧は「無知のゆゑによく知らざることなし」であり、無為法身は「無相のゆゑによく相ならざることなし」であるとされるのです。

「無知のゆゑによく知らざることなし」はさらに「智慧は作にあらず非作にあらざる」と言われ、「無相のゆゑによく相ならざることなし」はさらに「法身は色にあらず非色にあらざる」と言われます。「智慧は作にあらず非作にあらざる」とは「智慧は非作であるがゆゑによく作であらざることなし」ということで、「法身は色にあらず非色にあらざる」とは「法身は非色であるがゆゑによく色であらざることなし」ということです。これでも、まだあまりに抽象的ですので、できるだけ具体的な場面に引きつけて考えてみたいと思います。


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第7回、本文3 [「『証巻』を読む」その71]

(8)第7回、本文3

前の文につづいて一法句が清浄句であること、そしてまた法性法身であることがさらに展開されます。

〈一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。この三句(一法句と清浄句と真実の智慧無為法身)は展転(てんでん)してあひ入る(この三つはお互いに収まる)。なんの義によりてかこれを名づけて法とする(なぜ一法句というかといえば)、清浄をもつてのゆゑに。なんの義によりてか名づけて清浄とする、真実の智慧無為法身をもつてのゆゑなり。真実の智慧は実相(存在の真実の姿)の智慧なり。実相は無相なるがゆゑに、真智は無知なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆゑに法身は無相なり。無相のゆゑによく相ならざることなし。このゆゑに相好荘厳すなはち法身なり(浄土の荘厳相がそのまま無相の法身である)。無知のゆゑによく知らざることなし。このゆゑに一切種智(完全なさとりの智慧)すなはち真実の智慧なり。真実をもつてして智慧に()づくることはなぜ真実の智慧というかというと、智慧は()おこすものにあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもつてして法身を()つることは、法身は色(かたちあるもの)にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是といふなり。おのづから是にして、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず非にあらず、百非の喩へざるところなり(どれほど非を重ねてもよくあらわせるものではない)。このゆゑに清浄句といへり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なり。

注 原文は「非于非者豈非非之能是乎蓋無非之曰是也自是無待復非是也」。通常は「非を非するは、あに非を非するのよく是ならんや。けだし非を無(な)みする、これを是をいふ。みづから是にして待(たい)することなきも、また是にあらず」と読みます。「否定を否定するのはまさに肯定することで、否定を否むことが肯定です。ただ肯定するだけでそれでよしとするのはほんとうの肯定ではありません」といった意味でしょうか。すぐ前に「非色にあらざることを明かす」とあるのを受けて、「否定(非色)を否定する(あらざる)ことでほんとうの意味で肯定しているである」と言っているのでしょう。


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清浄な願心と浄土の荘厳 [「『証巻』を読む」その70]

(7)清浄な願心と浄土の荘厳

一法句(清浄句)と浄土荘厳全二十九句に戻りますと、法性法身と方便法身と同じように、「これあるに縁りてかれあり、かれあるに縁りてこれあり」という関係にあると言えます。一法句すなわち清浄な願心があるに縁りて浄土の荘厳があり、浄土の荘厳があるに縁りて清浄な願心があります。清浄な願心のあるところ、かならず浄土の荘厳があり、浄土の荘厳のあるところ、かならず清浄な願心があるのであって、どちらか一方だけがあるということはありません。われらは濁った願心をもってこの娑婆に生きていますが、それを映す鏡として法蔵菩薩の清浄な願心があり、それと切り離すことができないものとして浄土の荘厳があるということです。

あらためて確認しておきますが、こちらに濁った願心と一体のものとしての娑婆があり、あちらに清浄な願心と一体のものとしての浄土があるのではありません。それではプラトンの二世界説になってしまいます。そうではなく、濁った願心と一体のものとしての娑婆の気づきがあるところ、そこには清浄な願心と一体のものとしての浄土の気づきがあります。娑婆の気づきと浄土の気づきはひとつです。というか、ここは娑婆であるということを気づかせてくれるのがその鏡としての浄土の気づきですから、ここは娑婆であると気づいたときには、「その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)という気づきがあります。そしてこの気づきが信心に他なりません。

さて曇鸞はこの文の最後に「菩薩、もし(法性法身と方便法身の)広略相入を知らざれば、すなはち自利利他するにあたはず」と述べていますが、これはどういうことでしょう。法性法身が自利、方便法身が利他にそれぞれ対応すると考えられますから、二つの法身の関係が「法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す」と言われますように、自利と利他も「自利によりて利他を生じ、利他によりて自利を出す」という関係にあることを述べていると思われます。自利のあるところ、かならず利他があり、利他のあるところ、かならず自利があるということ、すなわち自利と利他が一体となっているということで、ここに還相の菩薩の立脚点があるということです。


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法性法身(ほっしょうほっしん)と方便法身 [「『証巻』を読む」その69]

(6)法性法身(ほっしょうほっしん)と方便法身

法性法身とは仏がさとった真理そのもので色も形もありませんが、方便法身は仏が衆生済度のために取るさまざまな姿のことです。親鸞はそれについて『唯信鈔文意』でこう述べています、「法身(法性法身です)はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ」と。仏の真理そのもの(真如、一如)は「いろもなし、かたちもましまさず」で、われらには及びもつきませんから、法蔵菩薩という姿をとり、不可思議の大誓願というかたちを示してわれらを済度してくださるということです。

さてこの二つの法身の関係について曇鸞は「法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は、異にして分つべからず、一にして同じかるべからず」と述べています。

法性法身から方便法身が出てくるのですから、前者が因で後者が果であると言えますが、これは普通の原因・結果の関係とはまったく異なります(一般に仏教の因果はいわゆる原因・結果とは似て非なるものです)。われらが普通につかっている原因・結果の概念では、原因とされるものと結果とされるものは別ものです。新型コロナウイルスが原因となって重篤な肺炎という結果を引き起こしますが、原因としてのウイルスと結果としての肺炎はまったく別ものです。しかし法性法身と方便法身は、「法性法身によりて方便法身を生ず」と同時に「方便法身によりて法性法身を出す」という関係にあり、この二つは離れて存在することができません。法性法身のあるところ、かならず方便法身があり、方便法身のあるところ、かならず法性法身があるのであって、どちらか片方だけが存在することはありません。

それを曇鸞は「この二の法身は、異にして分つべからず、一にして同じかるべからず」と述べているのです。仏教の縁起の法は「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と表現されますが、これは同時に「かれあるに縁りてこれあり、かれ生ずるに縁りてこれ生ず」ということであり、「これ」と「かれ」は切り離すことができないということです。


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第7回、本文2 [「『証巻』を読む」その68]

(5)第7回、本文2

浄土の荘厳のすべては法蔵菩薩の清浄な願心を因とすることが述べられた後、次の文がきます。

〈略して入一法句(にゅういっぽっく)を説くがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広とす。入一法句は略とす。なんがゆゑぞ広略相入(こうりゃくそうにゅう)()(げん)するとならば、諸仏・菩薩に二種の(ほっ)(しん)あり。一つには法性法(ほっしょうほっ)(しん)、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は、異にして分つべからず、一にして同じかるべからず。このゆゑに広略相入して、()ぬるに法の名をもつてす。菩薩、もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他するにあたはず。

「略して入一法句を説くがゆゑに」という『浄土論』のことばは謎めいていますが、曇鸞はこれを、二十九種の浄土の荘厳(国土・如来・菩薩の素晴らしいありよう)も、一つの法句におさまると注釈します。法句とはダンマ・パダの漢訳で、すなわち「真理のことば」を意味し、浄土のさまざまな荘厳も、たったひとつの真理のことばに約めることができるということだというのです。その一つの法句とは何かと言いますと、このすぐ後に「一法句とは、いはく清浄句なり」という『浄土論』のことばがありますから、二十九句の第一句、「かの世界の相を観ずるに、三界(欲界・色界・無色界の迷いの世界)の道に勝過せり」を指すことが分かります(天親はこれを荘厳清浄功徳とよんでいます)。

この句の意味は、かの浄土(国土・如来・菩薩)は法蔵菩薩の清浄な願心から生まれたのであるから、因が清浄であるがゆえに果としての浄土も清浄であり、濁りはてた三界のありようを超絶しているということですが、この一句に浄土荘厳全二十九句のすべてがおさまるということで、前の文(本文1)で述べられたことを再度確認しているわけです。さて曇鸞はこの清浄句と浄土荘厳全二十九句の「広略相入」の関係を仏・菩薩の法性法身と方便法身の関係に置き換えて注釈しています。これもすぐ後に「清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なるがゆゑに」ということばがあることによります。曇鸞はこの「智慧無為法身」を法性法身と理解するのです。


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