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王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし [「信巻を読む(2)」その109]

(12)王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし

汝に罪があるなら、われら諸仏にも罪があるということは、すべての事象は縁起でつながりあっているということです。

われらは「われはわれ、汝は汝」と考えます。ですから、わが罪は汝の罪ではなく、また汝の罪はわが罪ではない、これが当たり前でしょう。しかし汝の罪はわが罪であると釈迦は言うのです。突然ですが、頭にふと浮かんだのが「一億総懺悔」ということばです。先の大戦の罪は日本国民すべての罪であり、みんなで懺悔しなければならないということです。これは敗戦直後の東久邇宮稔彦首相が言い出したもので、天皇や政府そして軍部の責任を国民すべての罪に置き換えようとする詭弁として厳しく批判されました。その批判はまったくその通りで、それに異義を申し立てるつもりは全然ありませんが、このことばの政治的意味とは別に、そこにはある真実が潜んでいるのではないか、ということを考えてみたいと思うのです。

もう大分前になりますが、ある会合で一人の方がこう言われました、「チェルノヴィリ原発の所長はその責任を取らされ銃殺されたそうだが、わが福島原発はどうか。誰もその責任が追及されていないじゃないか」と。そのとき、ぼくは思わずその人にこう問うていました、「東電に責任があるのは当然だが、しかし、あなたに責任はないだろうか」と。同じ重さの責任があるとは言いません、でも自分にはまったく責任がないと言えるのだろうかと問いたかったのです。そのように言うことで東電の責任をあいまいにしまうのであれば、あの一億総懺悔と同じく厳しく批判されるべきでしょう。東電の、そしてそれを支える政府の責任をあいまいにすることは決して許されません。でも、その責任を問うとき、問うている自分自身を棚上げにすることはできないと言いたいのです。われらは、否応なく東電、そしてそれを支える政府とつながっているからです。

「われはわれ、汝は汝」ではなく、「一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」(歎異抄、第5章)と言わなければなりません。

(第9回 完)


タグ:親鸞を読む
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