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わたしのいのち [『ふりむけば他力』(その4)]

(4)わたしのいのち

 昔の記憶ついでにもうひとつ、今度は大学生時代のことです。テレビの画面に、ベトナム戦争さなかのサイゴン(いまのホーチミン市)の街角が映っています。道路の脇らしきところに捕らえられた解放戦線の兵士が一人、後手に縛られ目隠しされた状態で正座させられています。カメラはその兵士の姿を捉えているのですが、そこに南ベトナム軍の将校とおぼしき人物がつかつかとやってきたと思った次の瞬間、腰のサックからピストルを取り出すや、兵士の後頭部めがけて至近距離から発射しました。兵士の身体は一瞬弓なりに反りかえり、そして次の瞬間、頭から前にくずおれていきました。その映像が突然目に飛び込んできて、ぼく自身の身体が銃弾で射貫かれたような衝撃を感じました。何千キロも離れたサイゴンで、ぼくとは縁もゆかりもない解放戦線の兵士に起ったことが、わが身にシンクロしていたのです。ぼくのなかであの哀れな兵士とぼくとがひとつになっていたとしか言いようがありません。
 生きとし生けるものたちは、互いに食みあいながら、しかもひとつにつながりあって生きているということ、ここに他力思想の原風景があります。
 われらは「わたしのいのち」を生きています。そして「わたしのいのち」は「わたし」が主宰していると思っています。その証拠に「わたし」の主権が他から侵害されたと思えたとき、われらはものすごい怒りにとらわれます。あるとき、こんなことがありました。ある計画がぼくのあずかり知らないところで決められていました。ぼくに関係のない計画でしたら、誰がどのように決めようとかまいませんが、その計画にはぼくが車の運転手として組み込まれていたのです。その計画がぼくを蚊帳の外に置いたまま勝手に決められたと知ったとき、ぼくは烈火のごとく怒りました、どうしてぼくにひと言の相談もないのか、ぼくは一体何なんだ、と。「わたし」が「わたしのいのち」の主宰者ですから、結果的にその計画に賛同するとしても、やはり事前に「わたし」の同意をとってもらわないことには腹の虫がおさまらないのです。

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