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罪悪も業報を感ずることあたはず [『歎異抄』ふたたび(その75)]

(5)罪悪も業報を感ずることあたはず

 そしてさらにこの「無礙の一道」においては「罪悪も業報を感ずることあたはず。諸善もおよぶことなき」とあります。これは第1章に「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」とあったこととぴったり重なります。われらは浄土の門に入ることができたとはいえ、依然として「惑染の凡夫」ですから、罪悪から足を洗うわけにはいかず、よく諸善をなすこともできませんが、そのことがこの道を行く障碍とはならないということです。
 「罪悪も業報を感ずることあたはず。諸善もおよぶことなき」ということばは、「罪悪には悪報が、諸善には善果が待っている」ということを頭において言われています。いわゆる因果応報という考えです。しばしば仏教とはこの「善因善果、悪因悪果」の教えであると言われますが、念仏の道(無礙の一道)においてはそれはもう通用しないと言っているのです。もっとはっきり言えば、因果応報は仏教ではないということです。これまで繰り返し述べてきましたように、釈迦が説いたのは縁起の教えであり、それは因果応報とはまったく異なります。
 われらが「惑染の凡夫」であることと「弥陀の本願」があることはひとつのことです。われらが「惑染の凡夫」であるから、そのようなわれらのために「弥陀の本願」があるのであり、「弥陀の本願」があるということは、取りも直さず、われらが「惑染の凡夫」であるということです。としますと、われらがどれだけ罪悪を重ねなければならないか分からないような悪人であろうと、また、諸善をなそうにも思うようになしえない情けないものであろうと、それが救いの障碍になることはありません。正信偈に「一生悪を造れども、弘誓に値(もうあ)ひぬれば、安養界に至りて、妙果を証せしむ(一生増悪値弘誓、至安養界証妙果)」とあるのは、そのことです。

タグ:親鸞を読む
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