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善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり [『歎異抄』ふたたび(その93)]

(4)善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり


キリスト教の世界においても「全知全能の神がこの世界が創ったのに、どうして悪が存在するのか」という深刻な問いがあります。『ヨブ記』を読みますと、義人ヨブに加えられるありとあらゆる理不尽な悪はヨブに対する試練であることが分かります。ヨブがいかなる試練にも耐えて神への信仰を失わないでいられるか、これが問われているということです。では仏教において、いかなる「わたしのはからい」もそのままで「ほとけのはからい」であるとすれば、どうしてこの世に邪悪なはからいがあるのかという問いにどう答えたらいいでしょうか。


先回りになりますが、後序に次のような親鸞のことばが紹介されています。「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と。これこそ上の問いに対する答えと言えるのではないでしょうか。われらは「これは善し」「これは悪し」と言いあっているが、ほんとうに何が善く、何が悪いのかを知り通しているのかと親鸞は問うのです。


ここには「ほとけのはからい」の気づきがあります。


われらが「これは善し」「これは悪し」と言いあっているのは「わたしのはからい」のなかにおいてにすぎず、それがほんとうに(「ほとけのはからい」において)善いことであり、ほんとうに悪いことであるかどうかを知ることはできないということです。そう言えばスピノザも『エチカ』においてこう言っていました、「われらはあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し・意志し・衝動を抱き・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を抱き・欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである」と。われらが善だ悪だと言っているのは、ただそれを欲望し、それを嫌悪しているだけのことだというのです。



タグ:親鸞を読む
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