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因果ということ [「信巻を読む(2)」その111]

(2)因果ということ

ここで釈迦が述べているのは、父王・頻婆娑羅は無辜の仙人を殺害するという罪を犯しており、その報いとして阿闍世に殺害されるという報いを得たのだということで、先に三人目の大臣・実徳が父王にはもともとわが子に殺されるという業縁があったのだから、阿闍世に罪はないと言っていたのとよく似ています。大臣たち(そしてその後ろにいる六師外道たち)は因果そのものを否定して、阿闍世に罪がないとするか(月称、悉知義、吉徳)、あるいは因果を認めた上で、しかしそれを運命と捉え、結果的に阿闍世には罪がないとするか(蔵徳、実徳)のいずれかでしたが、ここであらためて因果について考えておきたいと思います。

すぐ前のところで言いましたように、仏教はあらゆる事象が縁起でつながりあっているとし、それを「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と表現します。「これ」を因とすれば「かれ」が果ですから、縁起は因果と同じであり、仏教は因果の教えであるとされます。さて注意が必要なのは、仏教の因果は、われらが普通に理解している因果とは根本的に異なるということです。普通の因果は、因が時間的に前で、果は後というように不可逆的ですが、仏教の因果の場合、因と果は時間を超えてつながっています。「これあるに縁りてかれあり」であるということは、同時に「かれあるに縁りてこれあり」ということであり、「これ」のあるところすでに「かれ」があり、「かれ」のあるところすでに「これ」があるという関係です。

そして普通の因果では、ある特定の因に対して、特定の果がおこりますが、仏教の因果では、あらゆるものがあらゆるものとつながっていて、そこに特定のつながりはありません。いまの場合、頻婆娑羅による仙人の殺害と阿闍世による頻婆娑羅の殺害はもちろんつながっていますが、しかしそれは無数のつながりのなかの一つにすぎず、それだけを取り出してそこに特定の因果応報があるかのように言うのは、仏教の因果を普通の因果と混同するものです。ここでの議論はそのような誤解を生みかねないものであることに細心の注意が必要です。


タグ:親鸞を読む
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