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第1帖・第7通の後段 [「『おふみ』を読む」その45]

(5)第1帖・第7通の後段                                                                            

このこころを、信心をえたる人とは申すなり。さてこのうへには、ねてもさめてもたつてもゐても、南無阿弥陀仏と申す念仏は、弥陀にはやたすけられまゐらせつるかたじけなさの、弥陀の御恩を、南無阿弥陀仏ととなへて報じまうす念仏なりとこころうべきなり」とねんごろにかたりたまいしかば、この女人たち、そのほかのひと、申されけるは、「まことにわれらが根機にかなひたる弥陀如来の本願にてましまし候ふをも、いままで信じまゐらせ候はぬことのあさましさ、申すばかりも候はず。いまよりのちは一向に弥陀をたのみまゐらせて、ふたごころなく一念にわが往生は如来のかたより御たすけありけりと信じたてまつりて、そののちの念仏は、仏恩報謝の称名なりとこころえ候ふべきなり。かかる不思議の宿縁にあひまゐらせて、殊勝の法をききまゐらせ候ふことのありがたさたふとさ、なかなか申すばかりもなくおぼえはんべるなり。いまははやいとま申すなり」とて、涙をうかめて、みなみなかへりにけり。あなかしこ、あなかしこ。

文明五年八月十二日

(現代語訳) このようにこころえられた人を信心をえた人と言うのです。さて、信心をえて摂取不捨にあずかった上は、弥陀にすでにたすけられ、何とかたじけないことかと、寝ても覚めても、居ても立っても、南無阿弥陀仏ととなえてその御恩を報じるのが念仏とこころえるべきです」と丁寧に教えていただいた女人たち、その他の人たちは、こう応えられました。「まことにわれらのような根機の劣ったものにかなった弥陀の本願ですのに、いままで信じてこなかったことの嘆かわしさはことばで言い表せないほどです。これからは、一向に弥陀をおたのみ申し上げ、われらの往生はひとえに如来からやってくるのだとふたごころなく信じさせていただき、さらには信心の後の念仏は仏恩報謝の称名であるとこころえることができました。このような不思議なご縁におあいすることができ、すぐれた教えを聞くことができました、そのありがたさ尊さはもうことばで申し上げることもできません。いまはこれでお暇させていただきます」と涙ながらに言われて、皆さんお帰りになりました。謹言。

 文明5年(1473年)8月12日


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摂取不捨 [「『おふみ』を読む」その44]

(4)摂取不捨

最後のところに「ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を摂取したまふなり」とありますが、これを読んで頭に浮ぶのは『歎異抄』冒頭の一文です。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」。このふたつはぴったり重なるように思えます。

しかし、ここでもぼくの違和感センサーが起動するのです。信の一念のおこるとき「光明をはなちて、その身を摂取したまふ」(「おふみ」)と、「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』)。同じじゃないか、重箱の隅をつつくようなことを言うな、と反発がおこるかもしれませんが、やはり神は細部に宿りたまうのです。信の一念のおこる、そのとき「如来は八万四千の光明をはなちて、その身を摂取」するのでしょうか。いえ、如来の光明は無量のはずです(第12願、光明無量の願)。十劫正覚のむかしから、一人の例外もなくみんなを照らしているはずです。信の一念のとき、その人をめがけて光明がはじめてはなたれるのではないでしょう。

としますと、信の一念のとき、何が起こっているのでしょう。

これまでまったく知らなかった弥陀の光明にはじめて気づくということです。「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」とはそのことです。信心により、はじめて光明に摂取されるのではありません。信心により、すでに光明に摂取されていることにはじめて気づくのです。信の一念とは、十劫のむかしから光明に摂取されているという事実に気づくことに他なりません。


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「こんな自分は」 [「『おふみ』を読む」その43]

(3)「こんな自分は」

機の深信とは、こんな自分はもうどうにもたすからないという深いため息です。自分で何とかしようとしても、如何ともしがたいという思い。自力無効を思い知ると言ってもいいでしょう。善導はこう言っていました、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と。どうもがいても生死の苦海から抜け出る手はないという諦めです。こんな自分はもうたすかる道理はない。

「こんな自分は」と思うことはとりたてて言うほどのことではなく、よくあるような気もします。でも、そのほとんどの場合、「でもあいつよりは」がつきます。そして「あいつよりは」がある限り、ほんとうの自力無効にはなっていません。まだどこかで自分をたのんでいます。考えてみますと、自分で自分を全否定することはできる相談ではありません。自分で「自分は存在しない」と言うようなもので、デカルトをまつまでもなく、そう言っている自分はそこに存在しています。

ほんとうに自力無効を思い知るのは、自力ではなく他力によるしかありません。

他力によって思い知るというのは、平たく言えば、あるときふと気づかされるということです。「こんな自分はどうにもならない」というため息は、それが正真正銘のものであれば、自分のなかからではなく、もっと深いところ、自分を突き抜けたどこかからやってきているはずです。だからこそ、どこかから否応なく気づかされたと感じるのです。そのような気づきがあるかどうか、これがすべての分かれ道です。この否応のない気づきがあってはじめて「すべてを弥陀の大悲にゆだねるしかない」という思いがあふれ出るのです。

「たのむ」や「たすけたまえ」が、こちらからたすけを求めるという意味ではなく、むこうからのたすけに身をゆだねるという意味になるのは、そこに「こんな自分は」という気づきがあるからです。


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罪業深重のあさましき女人 [「『おふみ』を読む」その42]

(2)罪業深重のあさましき女人

女人往生の話が出てきました。女人には、十悪・五逆の罪人であることに加えて、さらに五障・三従という罪障があるとされますが、五障のひとつが「仏になれない」ということです。何とも理不尽と言わざるをえませんが、蓮如はそんなあさましき女人のために阿弥陀仏の本願があるのだ、と説きます。ふたごころなく弥陀の本願をたのめば、まちがいなく往生できるのだ、と。ここに短いことばで女人往生の教えが纏め上げられていることは疑いありませんが、その反面、なんとなく「よそよそしさ」を感じてしまいます。

前に(第2回)蓮如の「客観的な語り」について述べました。たとえば、こんなふうです。われらは十悪・五逆の罪人である。弥陀の本願はかような罪人のためにある。ゆえに十悪・五逆のわれらは往生できる。こうした三段論法で語られているように思える、と。いまの場合、それがこうなります。どういうわけか諸経には女人は救われないと書いてある、しかしありがたいことに弥陀の本願はそんな女人を救おうといってくださる、だからわれら女人も往生できるに違いない。ここから「二心なく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもうこころ」が大事であるという結論が導かれます。もう望みの綱は弥陀の本願しかないのだから、これを一心一向にたのみ、たすけたまえとおもうしかないと。

ここに「たのむ」と「たすけたまえ」という蓮如教学のキーワードが出てきました。

このことばについては他力との関係でしばしば議論されてきました。普通の語感では、「たのむ」も「たすけたまえ」も、われらが弥陀を「たのみ」、われらが弥陀に「たすけたまえ」と願うことです。しかしそれでは親鸞の他力思想とどうにも平仄があいませんから、これをどう理解すればいいだろうかと、多くの人たちが頭を悩ましてきたのです。その落ち着き先はざっと次のようなところでしょう。「たのむ」とは、われらがこちらから「依頼する」ではなく、向こうに「ゆだねる」ということ、また「たすけたまえ」は、われらがこちらから「たすけを請う」ではなく、向こうからの「たすけを信じる」ということだと。

親鸞もときに「たのむ」と言うことがあります。たとえば『唯信鈔文意』に「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」とあります。これは、「自力をはなれたる」とあることからも、明らかに、こちらから「依頼する」ではなく、本願他力にすべてを「ゆだねる」の意味です。親鸞が「たすけたまえ」と言うことはありませんが、もしそのように言うとしましても、これも本願他力の「たすけを信じる」と受け取ることができるでしょう。ただ、そのように受け取るには前提があります。それが機の深信です。


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第1帖・第7通の前段 [「『おふみ』を読む」その41]

第4回 第1帖・第7通、第8通、第9通

(1)第1帖・第7通の前段

さんぬる文明第四の暦、弥生中半(なかば)のころかとおぼえはんべりしに、さもありぬらんとみえつる女性(にょしょう)一二人、なんどあ具したるひとびと、この山のことを沙汰しうしけるは、そもそもこのごろ吉崎の山上に、一宇(いちう)の坊舎をたてられて、言語道断おもしろき在所(ざいしょ)かなと申し。なかにもことに加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥国より、かの門下中、この当山へ道俗男女参詣をいたし、群集せしむるよし、そのきこえかくれなし。これ末代の不思議なり。ただごとともおぼえはんべらず。さりながら、かの門徒の面々には、さても念仏法門をばなにとすすめられ候やらん。とりわけ信心といことをむねとしえられ候よし、ひとびと申しなるは、いかうなることにて候やらん。くしくききまらせて、われらもこの罪業深重のあさましき女人の身をもちて候へば、その信心とやらんをききわけまらせて、往生をねがたく候よしを、かの山中のひとにたずねうして候ば、しめしたまるおもむきは、「なにのようもなく、ただわが身は十悪・五逆・五障(ごしょう)(さん)(しょう)のあさましきものぞとおもて、ふかく、阿弥陀如来はかかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまらせて、ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまとおもこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明をちて、その身を摂取したまなり。これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまといるはこのことなり。摂取不捨といは、さめとりてすてたまずといこころなり。

(現代語訳) さる文明4年の3月半ばのことですが、由緒ありげな女性の二人連れが、従者をつれてやってこられ、この山についてこんなふうに言われました。「近頃、この吉崎の山の上に御坊が建てられ、なにやらとても興味深いところであるということです。なかでも加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州の七か国からこの山へ男も女も僧も俗も隔てなくぞくぞくと参詣されているよし、かくれもないことです。これは末法のの世の不思議と言わなければならず、ただごととも思えません。それにしても、その門徒の人たちには、いったいどのように念仏の教えが説かれているのでしょう。特に信心が肝心と説かれているということですが、どういうことでしょうか。われらは罪深い女人の身ですが、その信心とやらをよくよくお聞かせいただき、往生したいものでございます」と、こんなふうに山中のものに言われましたところ、次のような趣旨のご教示がありました。「なんということもなく、ただ自分自身は十悪・五逆・五障・三従のあさましき身であると思い知って、阿弥陀如来は、このようなあさましき身をたすけてくださるのであると深くこころえて、ふたごころなく弥陀をたのみ、たすけたまえと思う一念が起こるとき、かたじけなくも、如来は八万四千の光明をはなってその身を摂取してくださるのです。弥陀如来が念仏の行者を摂取してくださるというのはこのことです。摂取不捨といいますのは、おさめ取って捨てられないということです。


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現世にしがみつこうとする自分 [「『おふみ』を読む」その40]

(15)現世にしがみつこうとする自分

ここで指摘しておきたいのは、親鸞にはこの「明日もしらぬいのち」という感覚が希薄だということです。それが出てもいいと思われる和讃においても、世の無常を詠うものはほとんどありません。吉本隆明は親鸞の和讃を「詩的ではない」と言っていましたが、それはそこに無常観がないということでしょう。先にも言いましたように、無常観と厭世観とは一卵性双生児です。現世を厭い、来世を願う。これが浄土教の通奏低音ですが、親鸞はこの感覚から抜け出しています。

親鸞には無常観の代わりに己の罪深さに対する悲しみがあふれています。「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」(『教行信証』「信巻」)。こんなことばを自分の著作の中に残す僧侶がいたでしょうか。もっと印象的なのは『歎異抄』第9章です。「また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」。

現世の愛欲や名利にこだわり、病気になれば死んでしまうのではないかと慌てふためく己をじっとみつめ、それを「はづべしいたむべし」と悲しむ、これが親鸞です。

現世を厭うどころか、現世にしがみつこうとしている自分。そこには深い悲しみがありますが、しかし、よくよく聞いてみますと、その奥の方から喜びの声が聞こえてこないでしょうか。「浄土へいそぎまいりたきこころ」がなく、現世にしがみつこうとするのは煩悩のなせるわざですが、「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしく」思われ、喜びが込み上げてくるのです。

現世にしがみついている自分に悲しみのこころをもちながら、それが本願を喜ぶこころに転じる、これが親鸞です。ここには来世の救いに向けるまなざしは見られません。

(第3回 完)


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明日もしらぬいのち [「『おふみ』を読む」その39]

(14)明日もしらぬいのち

文明5年の4月、蓮如59歳です。いつになく弱気が出ています。文末の一文からしますと、一種の遺言でしょうか。ここに油断ということばが二度出てきます。自分としては油断なく過ごしてきたつもりだが、みんなは大丈夫だろうか、いまは信心がさだまっているつもりでも、何かをきっかけに退転してしまわないか、と痛く心配しています。同年2月の1・5でも、大勢の人たちがこの吉崎に詰めかけてくるのはありがたいが、このうちどれだけの人が「しかしかと」他力の信心をえているだろうと疑っていました。そしてこの「おふみ」では、自分のいのちもそう長くはないと感じ、不安が嵩じている様子です。

さて、この「おふみ」に特徴的なのが「明日もしらぬいのち」という感覚です。蓮如は折にふれてこの「無常観」を持ち出します。なかでも有名なのが「白骨のおふみ」(5・16)でしょう。「されば朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば云々」とあります。これは日本の浄土教の底流として受け継がれてきた感覚で、『方丈記』や『平家物語』などの古典文学においてその主調音をなしてきました。この無常観と対となってきたのが厭世観です。この無常の世を厭い、はるかな浄土を仰ぎ見る。源信の「厭離穢土、欣求浄土」です。

しかし蓮如が「明日もしらぬいのち」を持ち出すのは、「はかないいのち」への単なる詠嘆ではなく、「なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ」というもっと切実な思いからです。朝には紅顔でも、夕には白骨となれる身なのだから、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」(5・16)と言いたいのです。ここで油断ということばが出てくるのはそういう思いからです。


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第1帖・第6通 [「『おふみ』をよむ」その38]

(13)第1帖・第6通

そもそも、当年の夏このごろは、なんとやらん、ことのほか睡眠(すいめん)かされてたく候はいかんと案じ候ば、不審もなく往生の死期(しご)もちかづくかとおぼえ候まことにもつてあぢきなく名残を敷くこそ候ふ。.さりながら、今日までも、往生の()もいまやらんと油断なくそのかまは候。それにつけても、この在所において、以後までも信心決定するひとの退転なきうにも候へかしと、念願のみ昼夜不断におもばかりなり。この分にては往生つかまつり候とも、いまは子細なく候べきに、それにつけても面々の心中もことのほか油断どもにてこそは候へ。命のあらんかぎりは、われらはいまのごとくにてあるべく候。よろにつけて、みなみなの心中こそ不足に存じ候へ明日(みょうにち)もしらぬいのちにてこそ候に、なにごとを申すもいのちをは候はば、いたらごとにてあるべく候。いのちのうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ御こころえあるべく候。あなかしこ、あなかしこ。

この障子のそなたの人々のかたへまゐらせ候ふ。のちの年にとり(いだ)て御覧候

 文明五年卯月二十五日これを書く。

(現代語訳) 今年の夏は、どうにも眠くて仕方がないのですが、これはどういうことだろうと思案してみますに、いよいよ死期が近づいているということかもしれません。まことにやるせなく、名残りおしく思います。とは言っても、これまでも、いつ往生の時がきてもいいように油断することなくその構えはしてまいりました。それにしましても、この地において、これからも信心のさだまった人が退転してしまわないようにと、そればかり夜となく昼となく心に願っております。この分ですと往生しても大丈夫だろうとは思いますが、それにしましても、みなさんの心中に油断はないものでしょうか。いのちに別状がない限り、われらは油断してしまうものです。何ごとにつけて、みなさんの心中が心配になります。明日をも知らぬいのちです。何を言ってもいのちが終わってしまえば、もう取り返しがつきません。いのちあるうちに不審に思われることを晴らしておかなければ後悔するに違いありません。よくお心得ください。謹言。

障子のそちら側におられる方々へ。あとで御覧になってください。

 文明5年(1473年)4月25日にこれを記しました。


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十劫安心(じっこうあんじん) [「『おふみ』をよむ」その37]

(12)十劫安心(じっこうあんじん)

ちょっと先回りになりますが、1・13にこうあります、「ちかごろは、この(ほう)念仏者のなかにおいて、不思議の名言(みょうごん)をつかて、これこそ信心をえたるすがたよといて、しかもわれは当流の信心をよく知り顔(てい)に、心中にこころえおきたり。そのことばにいく、『十劫(じっこう)正覚(しょうがく)のはじめよりわれらが往生をめたまる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ』といり。これおきなるあやまりなり」「このごろ、この越前の国に、あやしげなことばをあやつり、われこそ当流の真実の信心をえたるものと言っているものがおります。そのものは、十劫のむかしに法蔵が正覚をとったときに往生がさだまったのであるから、その恩を忘れないのが信心である、と言うのですが、これは大変なあやまりです」)と

これは「十劫(じっこう)安心(あんじん)」(あるいは「十劫(じっこう)秘事(ひじ)」)とよばれ、異安心として退けられるのですが、ぼくはこの蓮如のことばを読むたびに、何か自分のことを指さされているような感じになり、こころが落ち着かなくなります、「オレは異安心なのか」と。異安心とは、親鸞の正統な教えをゆがめる誤った見解で、キリスト教においては異端とよばれるものに当たります。この異端というレッテルは破門や火あぶりと結びつき、そのことば自体恐ろしさがつきまといますが、異安心にも似たような響きがあります。そこには大きな問題が潜んでいるような気がするのですが、それについてはまたをみてじっくり検討することにしていまは「十劫安心」がどうして「おきなるあやまり」なのかを考えておきたい。

「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへる」ということは、経にそのように書かれており、浄土の教えはそれに依拠しているのですから、決して「あやまり」ではありません。では何が問題なのかといいますと、そのように人に向かって説いているものが、己の身の上にそれを証していないということです。誓願が成就したのは十劫のむかしであるのは間違いありませんが、時間が十劫のむかしで止まっていて、その人の身の上に「いま」誓願が成就していないということです。

信心が定まらなくても往生はもう定まっています。ただ、信心が定まらないということは、そのことに気づいていないということに他ならず、迷いのなかをさまよい続けているということです。


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信心定まらないものは往生定まらない、のか? [「『おふみ』を読む」その36]

(11)信心定まらないものは往生定まらない、のか?

さて、この「おふみ」で気になるのは、「この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや」という箇所です。しっかりとした信心をえていないものは、浄土往生できようか、と言うのです。これからもこういった言い回しにしばしばお目にかかることになりますが、どうにも引っかかるのです。宗教によくみられる「脅し」がここでも顔を出しているように感じてしまう。

「信心の定まるとき往生また定まる」(『末燈鈔』第1通)のですから、それを裏返せば、信心定まらずば往生また定まらず、となるのは必然のような気もします。しかし、前にも言いましたように、この親鸞のことばは注意深く読まなければなりません。これは信心によってこれまで定まっていなかった往生がそのときに定まるということではありません。信心とは、それによって往生が定まる因ではありません。信心とは、往生がもうすでに定まっていることに「気づく」ことにすぎないのです。信心が定まろうと、定まらなかろうと、往生はもうすでに定まっているのです。ただ、信心が定まらないということは、そのことに気づくことができていないということです。

浄土の教えでは、一切衆生の往生が十劫のむかしに定まっています。『無量寿経』に、法蔵菩薩が一切衆生をわが浄土に往生させなければ正覚をとらないと誓われ、その誓いが十劫のむかしに成就して、めでたく阿弥陀仏となられたと説かれています。としますと、もうすべての人の往生は定まっているではありませんか。ぼくらは、そのことを信じようが、信じまいが、そんなことにかかわりなく、生まれるはるか以前に、浄土に往生できることが定まっているのです。文化センターでこのように話しますと、みなさん一様に怪訝な顔をされます、「えっ、そんなこと聞いてないぞ」と。信心が往生の因であると聞いてきたのに、いったい何を言い出すのか、と警戒の視線が飛んでくるのです。


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