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よきこころのをこるも [『歎異抄』を聞く(その47)]

(5)よきこころのをこるも

 ここでもう一度宿業に立ち返らなければなりません。「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへなり」。宿業といいますと、どうしても悪業の方に焦点が合わされますが、第4章では「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり」が関係してきます。ぼくらはどうしても、ぼくらに善きこころがあり、そのこころがはたらいて善きことをするのだと思います。「善きことをしなければ」という思いに促されて、善きことをすると。しかしどうでしょう、ほんとうにそうなっているでしょうか。
 「ひとつ善いことをしてやろう」と意識してしたことは、えてしてうまくいかないものです。その思いは相手にすぐ伝わり、「この人は善行をなそうとしている」と見透かされます。そしてそう見透かされたことはこれまたただちにこちらに反射してきて、「あゝ、恥ずかしい」という思いにさせられる。こうして何かぎくしゃくして、ことが円滑に進みません。ほんとうに相手に喜んでもらえることは、こちらに「この人のために善いことをしよう」という思いなどなく、ふと思い立ってしたことではないでしょうか。
 この「ふと思い立って」というのが宿業です。
 教師時代を思い出します。あるクラスで話したことが思いがけず生徒たちのこころに深く浸透したという感触があり、「よし、これはいける」と他のクラスで勢い込んで話してみると、あにはからんや、まったく反応がないという経験をよくしたものです。最初のクラスでは「ふと思い立って」話しただけなのに、次のクラスでは「これはいけるぞ」と計算して話したという違いです。この違いが相手の反応に大きな差を生みだすのですが、その背後に何があるのだろうと考えてみますと、結局のところそこに「わたし」があるかどうかということです。
 「ふと思い立って」したことには「わたし」がありません。もちろん、それをしているのは「わたし」ですが、でも「わたし」がはからっているのではありません、「宿業のもよほす」ままにしているのです。

タグ:親鸞を読む
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