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争わず [『歎異抄』ふたたび(その32)]

(9)争わず

 最古の経典と言われる『スッタニパータ』にこんな一節があります。「或る人々が『真理である、真実である』と言うところのその(見解)をば、他の人々が『虚偽である、虚妄である』と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争をする。何故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのであろうか?真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない」(中村元訳)。
 自由思想家たちはそれぞれ異なった見解をいだいて論争しているが、真理はひとつであり、それを知った人は争わない、と釈迦は言います。しかし、「真理はひとつである」からこそ、それぞれが自分の見解こそただひとつの真理であるとして争うのではないのか、という疑問が出るでしょう。もっともな疑問ですが、これまた真理はこちらからゲットするものであると思い込んでいます。確かに学者たちは自分の学説こそが真理であり、他の学説は間違いであると主張しますが(それが学問という営みです)、彼らにとって真理はみずからゲットするものです。
 しかし釈迦にとっての「ただひとつの真理」は、むこうからゲットされる真理であり、それにゲットされてしまった人は、もう争うことがないというのです。
 他の人からそれは間違っていると言われても、釈迦としてはそれと争う必要を感じないということです。普通、他の人から汝の言っていることは間違っていると非難されたら、「なにを!」となるものです。そして自分が正しく、相手が間違っている理由を示して立ち向かっていこうとします。それは自分がそれをゲットしたと思っているからであり、自分でゲットしたということは、それを正しいとする根拠があるということです。かくして相手との間でいずれが正しいか決着をつけなければならないということになります。
 しかし、むこうからゲットされた真理は、それを証明して争う必要がありません、それにゲットされたことそのものが何よりの証明ですから。

タグ:親鸞を読む
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