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「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされている [「『正信偈』ふたたび」その73]

(4)「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされている

「わたしのいのち」を生きることは自力で、「ほとけのいのち」に生かされることが他力ですから、「わたしのいのち」を生きるままで「ほとけのいのち」に生かされているということは、自力はそのままで他力であるということです。浄土に往生するとはこのことに気づくことにほかなりませんが、さて、これは如何にして可能でしょうか。自力はそのままで他力であることを自力で思い至ることはできません。他力に生かされていることに自力で思い至ることほど奇妙奇天烈なことはなく、そのことは他力により気づかせてもらうしかありません。

他力に生かされているということは、しばしば誤解されますが、他の「わたしのいのち」に生かされているということではありません。そのようなことでしたら、われらは一人では生きられないという普通の常識に属することにすぎず、そのことに自力で思い至ることができます。しかし他力に生かされているというのは、あらゆる「わたしのいのち」がみな「ほとけのいのち」のなかで生かされているということで、「ほとけのいのち」とはあらゆる「わたしのいのち」をそのなかに包み込んで生かしめる「無量(アミタ)のいのち」です。

さて「無量のいのち」のことにわれら「有量のいのち」が自力で思い至ることはできません。もしわれら「有量のいのち」が「無量のいのち」に自力で思い至ったとしますと、その「無量のいのち」はニセモノであると断言できます。なぜなら、その「無量のいのち」の外に、それに思い至った「有量のいのち」があるのですから、それはもはや「無量のいのち」ではないからです。としますと、われら「有量のいのち」が「無量のいのち」のなかに包み込まれて生かされているということは、「無量のいのち」から気づかせてもらったとしか考えることができません。

われらは「無量のいのち」をこちらからゲットすることはできません、ただ「無量のいのいのち」がわれらをゲットするのみです。そして「無量のいのち」にゲットされたと感じることが浄土に往生することに他なりません。これが「報土の因果誓願に顕わす」ということばが意味することです。


タグ:親鸞を読む
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