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二十五三昧会 [はじめての『高僧和讃』(その185)]

(13)二十五三昧会

 立てた目標が高ければ高いほど、それを実現するためには日々の生活を規律あるものにし、無駄な時間がないようにしなければなりません。それは聖道門において無我の悟りという高い目標を目指して厳しい修行をするのと何も変わらないと言えます。『往生要集』という書物は、実のところ、往生浄土という高い目標に向けて生きるべきこと、そしてそれをどのようにして実現していくかを丁寧に説き明かしたものです。いまは親鸞が源信を称えて和讃を詠んでいるのですが、それを親鸞以後のわれらが見るときには、源信と親鸞との間に大きな懸隔があるのを否応なく感じざるをえません。
 源信にとって「ほとけのいのち」はこれから先に手に入れるべきものとしてあります。ですから、親鸞のフィルターを通して言いますと、彼は化土を生きていると言わざるをえません。それを象徴することばを一つだけ上げますと、「臨終の一念は百年の業に勝る」(『往生要集』大文第六)というのがあります。臨終こそ正念場(これは臨終の正念ということばに由来します)であり、そのときに往生が得られるかどうかが決まるということですが、これは何度も引きます親鸞のことば、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまる」と好対照をなしています。
 『往生要集』が出ますと、それを実践しようという人たちが集まり、「二十五三昧会(ざんまいえ)」というグループが結成されます。25人の仲間が集まり、臨終の極楽往生に備えて準備万端ととのえようという趣旨です。毎月日を定めて念仏三昧の集会をもつのは当然として、注目すべきは、仲間のなかに病気になるものがでたら、往生院という施設に収容してみんなで看護するとともに、臨終に際しては、正念を失わずにめでたく極楽往生できるよう最後の看取りをすることを定めていることです。みんなで支えあって臨終の一念を全うできるように約束しているのです。これが源信浄土教です。

タグ:親鸞を読む
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