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面々の御はからひ [『歎異抄』を聞く(その33)]

(12)面々の御はからひ

 南無阿弥陀仏というインドの不思議なことばが中国に伝わり、さらに朝鮮、日本へと伝えられ、2千年にわたって無数の人々に称えられてきたという事実、ここにはじつに重い意味があります。
 歴史の重みと言います。歴史の試練に耐えてきたもの、歴史のなかで磨かれてきたものにはおのずから力があるということでしょう。南無阿弥陀仏の声が聞こえるということは、歴史の声が聞こえるということです。そしてそれにこだまするように南無阿弥陀仏と称えるということは、歴史の声に応答するということです。歴史の声に「帰っておいで」と呼びかけられ、その声に「はい、ただいま」と応答する。
 「われ人ともに救われん」という法蔵の誓いが南無阿弥陀仏という歴史の声として親鸞のもとに届いた。親鸞としてはその「よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細」なく、「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず」です。かくて「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし」。ただ歴史の声を信じ、その声に応答するだけです、と言うのです。そして最後にこう言い放ちます、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」。
 蓮如は「つゆうたがうべからず」と言いますが、親鸞は「信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と言う。
 後序には「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とありますが、これは歴史の声というものは巨大な拡声器から大音声で届くものではなく、親鸞一人の胸に秘めやかにやってくるということでしょう。そして、それに対してひとり一人が秘めやかに応答する。それが歴史の現実に向きあうということであり、それしかないということです。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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