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長生不死の神方 [『教行信証』「信巻」を読む(その14)]

(4)長生不死の神方


 つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり」につづいて、では大信とは何かを説くのですが、親鸞はこれでもかとばかり信心の相を十二も上げています。なかでも目を引きますのが第一の「長生不死の神方」と第二の「欣浄厭穢の妙術」です。まず「長生不死の神方」ですが、これを見てすぐ頭に浮ぶのが曇鸞を廻る有名なエピソードです。『続高僧伝』に伝えられる逸話で、親鸞はこれを「正信偈」の曇鸞讃においてこう詠っています、「三蔵流支(菩提流支のことです)、浄教を授けしかば、仙経(長生不死を説く道教の経典)を梵焼して楽邦(浄土)に帰したまひき」と。また和讃には「本師曇鸞和尚は 菩提流支のをしへにて 仙経ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめき」(『高僧和讃』)とあります。


曇鸞はもともと四論宗の人で龍樹の空に深く傾倒していましたが、あるとき病を得たことを機に、何とか長生きして仏教を究めたいと思いたち、はるばる江南の道士・陶弘景を訪ねて長生不死の教えを学んだそうです。そしてそれについて説かれた書を授かって洛陽に戻ってきたとき、インドからやってきた高名な菩提流支に出あい、「インドにはこのような中国古来の神仙術に勝る長生不死の教えがあるだろうか」と尋ねたのですが、菩提流支から「真の長生不死の教えは、生死の迷いから目覚めることを説く仏教ではないか」と言われ、『観無量寿経』を授けられたというのです。何かよく出来過ぎた話のようにも思いますが、曇鸞が浄土の教えに帰すようになったきっかけを鮮やかに示すものとして人口に膾炙してきました。


さて本願に遇うこと、本願名号の「こえ」が聞こえることがどうして「長生不死の神方」なのでしょう(「神」は不思議なということ、「方」は方法です)。


本願とは「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」で、それが「南無阿弥陀仏(われをたのめ)」の「こえ」としてわれらに届けられるのでした。そしてそれを聞き受け、本願のはたらきをわが身の上に感じることが「信」ですが、さてこの驚くべき経験は「ほとけのいのち」に目覚めることに他なりません。これまではただ「わたしのいのち」しかなく、ひたすら「わたしのいのち」を生きていると思っていたのですが、このときはじめて「わたしのいのち」はそのままですでに「ほとけのいのち」のなかで生かされていることに気づかされたのです。そして「ほとけのいのち」から「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」がかけられていることに気づいたのです。





タグ:親鸞を読む
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