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第3回、本文4 [「『証巻』を読む」その30]

(10)第3回、本文4

最後に締めの短いことばがきます。

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因浄なるがゆゑに、果また浄なり、知るべしとなり。

ご覧のように、この文は証だけでなく、これまでの教行信証すべてをまとめて締めくくり、因としての本願(教)・名号(行)・信心(信)、そして果としての正定聚(証)はみな如来の回向が成就したものであると述べています。因も果もすべて如来から賜ったものであり、したがってそこにはまじりけがないということです。さあしかし、このように言われますと、またしてもわれらの心が波立ちます。このようにすべてが如来のはからいであるとすると、われらはただの木偶の坊ということになるではないか、という痛みとも悲しみとも言うべき感情が起こってくるのです。これまでも何度か立ち会った場面ですが、あらためて考えておきましょう。

「わたし」が蔑ろにされるという感覚。

少し前のところで述べましたように、仏教は小乗であろうが大乗であろうが、聖道門であろうが浄土門であろうが、みなこの「わたし」を廻って展開されてきました。「わたし」に囚われること(我執)があらゆる苦の元凶であり、我執から脱却することが救いに他ならないというのが仏教の基本です。それを浄土門では「わがはからいがない」と言います。法然のことばとしては「義なき(無義)をもつて義とす」ということで、この「義なき」が「わたしのはからいがないこと」です。ここで親鸞が「もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし」と言っているのも、すべては「如来のはからい」によるのであり、「わたしのはからい」ではないということです。


タグ:親鸞を読む
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