SSブログ
「『正信偈』ふたたび」その18 ブログトップ

偈文4 [「『正信偈』ふたたび」その18]

(9)偈文4

さて「南無阿弥陀仏」の「こえ」と不可思議な「ひかり」がやってきて、それによりわれらが「ほとけの願い」に気づかされることが詠われます。

本願名号正定業 至心信楽願為因

成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。

等覚(正覚に等しいという意味で、菩薩の最高位を指す。親鸞は正定聚と同義でつかう)を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。

このたった四句の中にものすごく多くのことが詰め込まれています。

まず第一句「本願の名号は正定の業なり」ですが、これはいままで見てきましたように、「ほとけの願い」(本願)は「南無阿弥陀仏」(名号)の「こえ」となって、われらのもとに送り届けられるのであり、それがわれらの往生(救い)の因となるということです。「正定業」とは往生の「正しく定まった業因」という意味で、名号の「こえ」が届けられることが因となってわれらの往生が成し遂げられるという意味です。名号が往生の正定業であると言われますと、われらが名号を称えることが因となって往生が果たされると受けとりたくなりますが、もしそうだとしますと、われらが念仏することが往生の条件となり、その念仏は紛れもなく自力の念仏と言わなければなりません。そうではなく名号はわれらが称えるより前に、われらに届けられるのであり、それが往生の正因であるということです。そのように往生の因はわれらの側にあるのではなく、如来の側にあり、すべては「ほとけの願い」のはたらきによります。

そのことは四十八願の中の第十七の願、「諸仏称名の願」で表明されています、「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して(ほめたたえて)、わが名を称せずは、正覚を取らじ」と。十方世界の無量の諸仏が「わが名を称する」いうのはどういうことかと言いますと、「ほとけの願い」を「南無阿弥陀仏」の名号に込めて、一切の衆生のもとに届けるということであり、そのことによりわれらははじめて「ほとけの願い」に救われることができるということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『正信偈』ふたたび」その18 ブログトップ