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自然法爾章(2) [親鸞の和讃に親しむ(その118)]

(8)自然法爾章(2)

ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上仏とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料(手立て)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさた(沙汰、あれこれ言う)すべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。

前段で自然=他力とは、すべては如来の誓いにはからっていただいているということだと述べた上で、ではその如来の誓いとは何かというと、念仏の衆生を「無上仏にならしめん」というものであると言います。そしてさらに無上仏は「かたちもましまさ」ず、そのことをもって自然というのだと言います。かくして無上仏=弥陀仏とは「自然のやうをしらせん料」であると言うのですが、この辺りの筆の運びは何とも微妙で、すんなり頭におさまるというわけにはいきません。親鸞は「この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり」と釘を刺していますが、それは「この自然のこと」はこちらから捉えようとしても、とても捉えられるものではない、ということでしょう。

ここで親鸞が言おうとしていることをぼくなりに咀嚼してみますと、次のようになります。われらは「わたしのいのち」をひたすら「わがちから」で裁量しているように思っていますが、実はそれはみな大いなる「ほとけのいのち」のなかで生かされているのであるということ。そして「ほとけのいのち」とは「無量(アミタ)のいのち」と言うしかなく、「有量(ミタ)のいのち」たちが無尽につながりあっている、そのつながりの総体です。さてしかしそれはいったい何かと問おうとしても、色も形もなくつかみどころがないと言わざるをえません。「有量のいのち」が「無量のいのち」をつかみ取るすべはないということです。ではなぜ「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に生かされていると言えるのかと言いますと、「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」をつかみ取ることができなくとも、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を否応なくつかみ取ってくるからであり、「わたしのいのち」はそれに気づかされるからであるということです。

「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」という謎めいたことばは、「ほとけのいのち」は「ほとけのいのち」みずからその存在を知らしめてくるのであり、それをわれらがつかみ取るすべはないということに違いありません。


タグ:親鸞を読む
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