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もとより真実の心なし、清浄の心なし [『教行信証』「信巻」を読む(その23)]

(3)もとより真実の心なし、清浄の心なし


 ここでは第十八願の願文が出されるだけで、その解説は一切ありませんが、幸いなことに『尊号真像銘文』において親鸞自身がこの文を詳しく注釈してくれていますので、上に述べましたことを確認するためにその一部を読んでおきたいと思います。「〈至心信楽〉といふは、〈至心〉は真実と申すなり。真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。〈信楽〉といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この〈至心信楽〉は、すなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず」。まだつづきますが、ここまでで十分でしょう。


まず「至心」について、これは真実の心であるが、われら煩悩具足の凡夫には薬にしたくても真実の心などないと言います。真実の心は清浄の心とも言われ、濁りのない澄みきった心と理解できますから、われらの心はみなどんより濁った心であるということです。これをぼく流に言い替えますと、われらはみな「わたし」というレンズ越しにものを見ていているということです、これは「わたし」に有利か不利かと。ここから「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)ということになります。これが「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり」ということです。


次に「信楽」については「如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり」と言われ、また「十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり」と言われたあと、「凡夫自力のこころにはあらず」と釘を差されていることから分かりますように、これまた「至心」と同じく、われらには「ふたごころなくふかく信じる」心はないと言っているのです。かくして第十八願はわれらに「至心信楽すべし、そうすれば往生させよう」と言っているのではなく、「至心信楽のできる身にならせて往生させよう」と誓っていることを確認することができます。



タグ:親鸞を読む
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