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バリアが外れて [『ふりむけば他力』(その123)]

(4)バリアが外れて

 本願に遇うことができたということは、そのご縁があったということであり、逆に、遇うことができないということは、そのご縁に恵まれないということですが、ここであらためて心に留めておかなければならないのは、ご縁があるかどうかは事後的にしか分からないということです。まだ本願に遇っていないということは、これまでのところそのご縁に恵まれていないということにすぎず、これからについてはまったく分かりません。このすぐあとに本願に遇うご縁があるかもしれませんし、はたまたこれからずっとご縁がないままであるのかもしれません。
 あらためて本願はあらゆる衆生に届けられているのに、どうしてそれに遇う縁に恵まれないのかと思いめぐらしますと、自分で周囲にバリアを張りめぐらせ、本願の気づきをブロックしているとしか言いようがありません。そしてまたそのバリアが「わたし」であることは言うまでもありません。われらは何かを見るとき、「わたし」というフィルターを通してしか見ることができませんが、このフィルターが気づきをブロックしている張本人です。本願についても「わたし」のフィルターを通してそれを捉えようとしますから、それではいつまでたっても本願に遇うことはできません。こんなふうに自分でバリアを張りめぐらして、本願が届くのをわざわざ遠ざけているわけです。
 親鸞が関東からやってきた弟子たちに言っているのはそのことで、あなた方はそもそもからして逆さまの方向に向いていると注意しているのです。「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」ということばは、あなた方がそのことを知ろうとしている限り、いつまでたっても本願には遇えませんよと釘を刺しているのです。もちろん、こう言われたからといって、はいそれではと急に軌道を修正することができるわけではないでしょうが、しかし少なくとも、はっと立ち止まって親鸞が言わんとしていることを噛みしめてみることでしょう。そしていつの日か、張りめぐらせていたバリアがふと外れて、本願に遇うことができるのではないでしょうか。

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