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四論の講説さしおきて [親鸞の和讃に親しむ(その48)]

(8)四論の講説さしおきて(これより曇鸞讃)

四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 具縛の凡衆をみちびきて 涅槃のかどにぞいらしめし(第22首)

空の教えをさしおいて、他力の教えときたまい、具縛の凡愚みちびいて、涅槃の門にいれたまう

曇鸞は龍樹の徒(四論宗)として出発しますが、一つ前の第21首に詠われていますように、菩提流支に遇ったことが機縁となり、浄土の教えに目覚めたとされます。そして「四論の講説さしおきて、本願他力をときたま」うこととなるのですが、どうして空をさしおいて、他力をえらぶことになるのでしょう。空と他力はどちらも釈迦の縁起にもとづいており、決して別ものではないでしょう。しかし両者は説くことばが違うと言わなければなりません。「事実として説くことば」と「物語として説くことば」の違いです。片や「世界の実相は空である」と語り、片や「われらは弥陀の本願力により生かされている」と説きます。

空を事実として語るということは、空という事実をわれらが「つかみとる」ことができるし、「つかみとらなければならない」ということです。これが〈自力〉聖道門のとる道です。一方、本願力を物語として語るのは、本願力をわれらが「つかみとる」ことはできないということ、逆にわれらが本願力に「つかみとられる」ことで救われるのだと言っているのです。これが〈他力〉浄土門のとる道です。そこから翻って〈自力〉聖道門を顧みますと、空も実はわれらがつかみとることのできることではなく、むしろそれにわれらがつかみとられるのですが、それを事実として語ることによって、われらがその事実をつかみとらなければならないと思い込んでいたのです。かくして「四論の講説さしおきて、本願他力をときたま」うこととなります。

「涅槃のかどにぞいらしめし」という言い回しも味わい深い。「涅槃そのもの」にいらしめるのではありません、「涅槃の門」にいらしめるのです。聖道門では空の実相をつかみとることで「涅槃にいる」ことができると説きますが、浄土門では弥陀の本願力につかみとられることで「涅槃の門にいる」ことができると説きます。いや、本願力につかみとられたそのとき、気がついたらもうすでに「涅槃の門」に入っているのであり、それが往生に他なりません。


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