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願作仏心はすなはち度衆生心 [「『証巻』を読む」その91]

(8)願作仏心はすなわち度衆生心

願作仏心はすなわち度衆生心であるということ、これはすでに往相と還相の関係として述べたこととそっくり同じです(第4回の2)。そこではこんな言い方をしました、往相は還相をまってはじめて完結する、と。往相は往相として完結し、その後に還相がはじまるのではありません(その場合は、往相は今生、還相は来生になります)。往相はそのままですでに還相ですから、そのようなものとしてはじまり、そのようなものとして完結するということです。しかしどうして往相はすなわち還相であり、願作仏心はすなわち度衆生心であると言えるのでしょう、これをあらためて確認しておきたいと思います。

そこで「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることを想い起こしましょう(これに気づくことが信心です)。すなわち「わたしのいのち」は他のすべての「わたしのいのち」たちと縦横無尽につながりあっており、そのつながりが「ほとけのいのち」です(網の一つの結び目をもち上げますと、他の結び目がみんなズラズラと持ち上がってきます、4参照)。このことを親鸞は「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」と言っています(『歎異抄』第5章)。としますと、願作仏心すなわち自分が救われたいと思う心が、ただそれだけで完結するはずはありません。自分のいのちは、他のすべてのいのちと否応なくつながっているのですから。自分が救われようとすれば、他のすべての衆生が救われなければなりません。かくして願作仏心はすなわち度衆生心でなければならないのです。

そのことを何よりもよく言い表しているのが最十八願です。「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」(これを曇鸞はこのすぐ後の文で「もし一衆生として成仏せざることあらば、われ仏にならじ」とかみ砕いてくれています)。これは法蔵菩薩の誓願ですが、見てきましたように、法蔵菩薩と還相の菩薩はもう限りなく近いと言わなければならず、法蔵菩薩にとっても還相の菩薩にとっても願作仏心はすなわち度衆生心に他なりません。


タグ:親鸞を読む
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