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万善の自力と円満の徳号 [「『正信偈』ふたたび」その83]

(4)万善の自力と円満の徳号

それが第三・四句の「万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む」ということです。「万善の自力」を勤修すると言いますのは、「一切衆生悉有仏性」を自覚するために、みずからの力でさまざまな行をなすということです。経典を読み、禅定を修めること等によりみずからのこころを磨き、そこに仏性が宿っていることを自覚するべく努めなければなりません。一方、「円満の徳号」を専称すると言いますのは、ただ一生懸命に名号を称えるということではありません。それでは経典を読んだり、禅定を修めたりすることと区別がつきません。そうではなく「円満の徳号」が「こえ」として聞こえてきて、わが身にはたらきかけているのを感受するということです。それを感受できたとき、もうすでに「ほとけのいのち」のふところのなかに懐かれています。

「ほとけのいのち」のふところに懐かれていることを「みずから」悟るのと、「おのずから」信じるのとの違い。もっと端的に言えば、「ほとけのいのち」をこちらからゲットするのと、「ほとけのいのち」にむこうからゲットされるのとの違いですが、さて「ほとけのいのち」をこちらからゲットすることはできるものでしょうか。「ほとけのいのち」とは「無量のいのち」すなわち「無量寿(アミターユス)」で、それに対して「われらのいのち」は「有量のいのち」ですが、「有量のいのち」は「無量のいのち」をゲットできるものでしょうか。

清沢満之という人は若い頃、この有量(有限)と無量(無限)の関係について考究し、あらゆる有量は互いに主となり、また伴となって有機的につながりあっており(これを「主伴互具」と言います)、そのつながりの総体が無量に他ならないと述べています(『宗教哲学骸骨』)。すなわち、あらゆる有量は無量のつながり(縁)のなかに包摂されているということですが、だとしますと「有量のいのち」は「無量のいのち」をゲットできるはずがありません。もし「有量のいのち」が「無量のいのち」をゲットしたとしましたら、その「無量」はもはや正真正銘の「無量」ではありません。その外に「有量」が少なくとも一つはあるのですから。


タグ:親鸞を読む
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