SSブログ
「『正信偈』ふたたび」その64 ブログトップ

一心を彰す [「『正信偈』ふたたび」その64]

(4)一心を彰す

次は第五・六句の「広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す」ですが、これは一筋縄ではいかない複雑な文です。「広く本願力の回向によりて、群生を度せん」とするのは弥陀ですが、「一心を彰す」のは天親であるというように、主語がねじれています。短い文の中に多くのことを詰めこもうとしてこのように分かりにくい文になったと言わざるをえません。そこで僭越ながら親鸞が言おうとしたことを忖度してみますと、われら群生が生死の海を渡ることができるのは弥陀の本願力の回向によることを明らかにしようとして、天親は「一心を彰」したということでしょう。ここで「一心を彰す」と言われますのは、『浄土論』の冒頭で「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と表明したことを指しますが、さてこの「一心」とはそもそもどういうことでしょうか。

普通「一心」とは「心を一つのことに集中して」とか「他のことに心を移さずに」といった意味ですが、親鸞はこの「一心」に特別の意味を込めています。

われらが何かを信じるとき、まず何かがあり、それをわれらが信じますから、何かとわれらは「二つ」になっています。それが普通の「信じる」ですが、さて本願を信じるとはどういうことでしょう。すぐ前のところでこう言いました、本願から「われをたのめ」という招喚の勅命が聞こえてくると。この「こえ」が聞こえることが本願を信じるということです。本願なるものがどこかにあるのではなく、それは「こえ」となってわれらにはたらきかけてくるのです。そのはたらき(これが本願力です)がわが身の上に生き生きと感じられることが本願を信じるということですから、そこにおいて本願とわれらは「一つ」になっています。これが「一心」ということです。

「本願力の回向によりて」とは、信心は本願力がわれらにはたらきかけて生まれるものであるということですが、そのようにして生まれた信心は本願と「一つ」であり、その信心は「一心」であると言っているのです。このように信心と本願は一つであるからこそ、われらは信心によりたすかるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『正信偈』ふたたび」その64 ブログトップ