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2013年11月1日(金) [はじめての『教行信証』(その96)]

 「わたしが」という心のはたらきは、釈迦なら「わがものへの執着」とよぶでしょう。「わがものであると執着している人々を見よ。(そのような人々は)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」とは『スッタニパータ』に記録された釈迦のことばです。
 「わがもの」は目で見えるモノに限りません、信心や念仏までも「わがもの」としてしまうのです。如来より賜りたる信心であるとしても、賜った以上「わたし」の信心であり、いかに他力の念仏であると言われても、「わたし」が称えなければ何ともならないと思う。「わたし」がいなければ何ごとも始まらないじゃないかと。
 しかし「わたし」がいなければ何ごとも始まらないでしょうか。
 これまで「わたし」は遅れをとるという言い方をしてきました。念仏においても信心においても「わたし」がそうしようと思ってするのではなく、気がついたらもうすでにそうしていたのです。その後で「わたし」が顔を出す。「わたし」がいなくても、すでに始まっているのです。
 考えてみますと、「わたし」自身、気がついたらもうすでにこの世にいたのです。その後で「わたし」が登場する。
 「わたし」は「わたし」の存在に遅れをとっています。吉野弘の詩に「I was born」というのがあります。「確か 英語を習い始めて間もない頃だ」ではじまるのですが、少年が身重の女性とすれ違ったとき、「僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受け身〉である訳を ふと諒解」するのです。

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