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欲生心成就の文 [『教行信証』「信巻」を読む(その133)]

(4)欲生心成就の文

欲生すなはちこれ(如来の)回向心」であることを明らかにするために、まず『大経』と『如来会』から引かれます。

ここをもつて本願の欲生心成就の文、『経』にのたまはく、「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。以上

またのたまはく、「所有の善根回向したまへるを愛楽(あいぎょう)して無量寿国に生ぜんと願ずれば、願に随ひてみな生ぜしめ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間(五無間業のこと、すなわち五逆)・誹謗正法および謗聖者を除く」と。以上

お気づきのように、いずれの文もすでに「信巻」のはじめの方に引かれていました第十八願の成就文の後半部分ですが、それをここで「欲生心成就の文」としてもう一度引いているのです。あらためて注目したいのが『大経』の成就文にある「至心に回向したまへり」という文言です。前にも述べましたように、ここは普通には「至心に回向して(かの国に生ぜんと願ずれば)」と後につづけて読むところですが、親鸞はこれを独立した一文とします。その狙いは明らかで、至心に回向する主体を「われら」から「如来」へと転換しているのです。親鸞としては至心に回向するのは如来をおいて他にありませんから、いかにも不自然な読みですが、こう読むしかないのです。

そしてこう読むことで、その後の文の意味することがきわめて明瞭になります。すなわち、如来が至心に回向してわれらの往生を願ってくださっているからこそ、われらが往生を願うと(すでに如来に願われていると気づいて、われらが願うと)、そのとき(「すなはち」)往生できるということがすっきり了解できます。もし回向し願うのがわれらであるとしますと、それがどれほど切実なものであるとしても、願ったそのときに往生できるなどと言えるものではありません。往生できるとしても未来のことであり、しかも必ず往生できるという保証はどこにもありません。


タグ:親鸞を読む
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