SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その23) ブログトップ

念仏成仏これ真宗 [親鸞の和讃に親しむ(その23)]

(3)念仏成仏これ真宗

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 権実真仮(ごんじつしんけ)をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ(第71首)

浄土門こそ真実で、聖道門は仮門なり。真仮の区別できずして、他力の浄土しりえない

他力の念仏が真で、自力の諸行は仮であると詠われます。真に対しては偽とするのが普通でしょうが、親鸞は他力と自力は「真と仮(化)」の関係だとします。もし自力が偽でしたら、それはただちに捨てなければなりませんが、残念ながらわれらは自力を捨てることはできません。われらが生きることの一切合切が自力です。他人の力に頼るとしても(いや、他人の力に頼らなければ生きていけませんが)、頼ることそれ自体が自力です。たとえばALS(筋委縮性側索硬化症)の患者は生きるすべてを他人に頼らなければなりませんが、他人を頼って生きることができるのもその患者の力です(『こんな夜更けにバナナかよ』の主人公の姿はそれをはっきりと示しています)。

このようにわれらは自力で生きているのですが、それはしかしわれらが「わたし」を仮説(けせつ)しているからであると説くのが仏教です。

われらは仮に「わたし」がある〈かのように〉生きているということです。これはそうすることが正しいとか間違っているとかということではなく、われらはどういうわけかそのような仮説のもとで生きることになっているのです。それはわれらがどういうわけか直立二足歩行で生きているのと同じことです。ただ、直立二足歩行は見て分かりますが、「わたし」を仮説して生きていることを自分で見ることはできません。それは「わたし」の外から気づかせてもらうしかありませんが、その「わたし」の外が「無量のいのち」すなわち阿弥陀仏であると説くのが浄土の教えです。これが他力の教えです。他力とは自力を否定することではなく、われらは「わたし」を仮説して自力で生きていると気づかせてもらうということです。

われらは否も応もなく「わたし」を仮説して自力で生きざるをえませんが、そのことに気づかせてもらっていることでは他力のなかにあるのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その23) ブログトップ