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悪ということ [『ふりむけば他力』(その48)]

(10)悪ということ

 浄土の教えで「信ずる」といいますと、それはもう本願他力を信ずることに決まっていると考えられますが、善導は、本願他力を信ずることには実はその裏にもうひとつの「信ずる」がはりついており、それは自分自身についての気づきであるというのです。一枚の紙が表と裏でなりたっているように、「信ずる」にも表と裏があり、その両者があいまって「信ずる」がなりたっているということです。では裏にはりついている自分自身についての気づきとは何でしょうか。善導のことばとしては、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなしと信ず」とあるのがそれです。浄土教特有のことばで述べられていますが、平たく言い直しますと、「こんな自分は浮かぶ瀬がない」ということです。
 「他力の気づき」はその裏側に「悪の気づき」がはりついているということ、これです。
 これはしかし浄土の教えにしかないものではなく、釈迦の教えそのものに同じ構造が見られます。釈迦は何に目覚めたかと言えば、それは縁起や無我であるというのが通り相場ですが、しかしこの目覚めにはその裏側があると言わなければなりません。それが我執の目覚めです。われに囚われ、わがものに囚われること、これが我執ですが、自分自身のなかにこれがあると気づく。前にも引きましたが、『ダンマパダ』(漢訳の経典としては『法句経』です)に「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」とあります。「わたしには子がある。わたしには財がある」と思い、それに囚われるのが我執ですが、釈迦は自分自身のなかにこれがあると気づいたのです(この文で「愚かな者」と言われていますのは、誰あろう、若き日の釈迦その人です)。
 「わたしには子がある」と思って「愛欲の広海に沈没し」、「わたしには財がある」と思って「名利の大山に迷惑」する、これが我執ですが(「愛欲の広海云々」、「名利の大山云々」は親鸞が『教行信証』のなかでみずからのことを述懐していることばです)、この我執の気づきがあってはじめて縁起や無我の気づきがあるということです。やはり「機の深信」があってはじめて「法の深信」があると言わなければなりません。己の悪に遇うことではじめて縁起すなわち本願他力に遇うことができるのです。

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