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真実の信心はかならず名号を具す [『教行信証』「信巻」を読む(その150)]

(9)真実の信心はかならず名号を具す

そして問題の一句「すなはち一切群生海の心なり」ですが、親鸞は個々の群生の心とはせず、一切群生海の心と言います。この「海」の一字が微妙な役回りをしています。すなわち「ほとけのいのち」とは個々の「わたしのいのち」の心ではなく、「わたしのいのち」たちすべてを一つにつないでいる心であるということです。「わたしのいのち」たちは、このすべてを一つにつなぐ心によって生かされているということです。

最後の一句「この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」もまた微妙な言い回しで、すんなり了解できるわけではありませんが、「ほとけのいのち」から「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」がかけられていると気づくことが「誓願を信楽する」ことであり、そのとき「ほとけのねがい」(本願)が「わたしの信心」となっているということでしょう。これが「一心」ということで、そしてこれが「真実の信心」です。

さて「これを真実の信心と名づく」の後、「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」ときますが、唐突の感じがします。一心すなわち信心の話がつづいていたのに、突然、名号が出てくるからです。ここで名号といいますのは「称名」の意味で、真実の信心があれば、かならず称名が伴うということですが、なぜそれをここで言わなければならないのかと戸惑いを覚えるのです。

しかしその後に「このゆゑに論主建めに『我一心』とのたまへり」と言われることから、親鸞の心のうちが見えてきます。天親は「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と表明しており、「一心」という真実の信心には「尽十方無礙光如来に帰命したてまつる」という名号が伴っているのです(「帰命尽十方無礙光如来」は十字名号と言われます)。このように「真実の信心はかならず名号を具す」のです。

それにしてもどうして「真実の信心はかならず名号を具す」のでしょう。そこにはどんな力学がはたらいているのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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