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生死の園、煩悩の林のなかに回入して [「『証巻』を読む」その38]

(7)生死の園、煩悩の林のなかに回入して

さて「その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し云々」という文は、この後すぐ引かれる『浄土論』の「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入(えにゅう)して、神通に遊戯(ゆげ)して教化地に至る」という文と重なり、還相を生きる菩薩の姿が描かれています。冒頭の「その本願の自在の所化」とは、弥陀の浄土に来生した菩薩が、衆生を自由自在に教化したいという本の願いにしたがって、という意味で、この「本願」は菩薩の「本の願い」ということです。

ここで考えておきたいのは、この還相のはたらきが「除く」というかたちで表現されているということです。

信心を得て来生すれば「究竟してかならず一生補処に至らん」と述べた後、しかし還相の菩薩として衆生を教化利益するために生死の園に入っていこうとするものは「除く」と言うのです。この言い回しからは、往生して一生補処に至るのが本来であって、還相の菩薩として生死の園に入り衆生教化するのは本来の道から外れるような印象をうけます。往生して一生補処に至るのとは別に、還相の菩薩として利他教化する道もあるが、それはあくまで例外であるとされているように思えるのです。しかし親鸞はそのような印象を打ち消し、はっきりこう言います、「これは如来の還相回向の御ちかひなり」と。すなわち親鸞によれば、この願は「除く」とされた部分にその本質があり、浄土に往生したものは、ただちに還相の菩薩として衆生教化のはたらきをするために生死の園に入っていくのであると。

あらためて「除く」とされる文を子細に見ますと、親鸞はこの「除く」を「恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめん」までかかるとし、最後の「常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん」を「除く」から外して独立させています。しかし普通に読みますと、「除く」は最後の一文までかかるのではないでしょうか(浄土宗の読みはこちらです)。


タグ:親鸞を読む
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