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他力の行と自力の行 [はじめての『高僧和讃』(その128)]

(15)他力の行と自力の行

 諸仏が弥陀を讃えてその名を称える、これが第十七願ですが、これをわれらの側から言いますと、諸仏が称える南無阿弥陀仏が聞こえるということです。われらが南無阿弥陀仏を称えるより前に諸仏が称える南無阿弥陀仏が聞こえる、これが「他力の行」である所以です。南無阿弥陀仏はわれらが弥陀に向かって称えるものだと思い込んでいますが、そしてそれはかならずしも間違いではありませんが、でも、それに先立って諸仏が称える南無阿弥陀仏がわれらにやってくる。まず向こうからやってきて、しかる後にこちらから称える、だから他力の行だということです。
 南無阿弥陀仏は紛れもなく「わたし」の口から出てきます。でも「わたし」がその源ではありません。その源は諸仏で、諸仏からやってきた南無阿弥陀仏が「わたし」の身体を通り、また「わたし」の口から出ていくのです。では雑行雑修としての念仏はどうかと言いますと、これは「わたし」が南無阿弥陀仏の源になっています。南無阿弥陀仏を称えることによってさまざまな善き事がえられると教えてもらい、ならばと「わたし」が南無阿弥陀仏を称える。この南無阿弥陀仏は現世利益を得るための呪文であり、「わたし」がその源となっている自力の念仏です。
 諸仏の南無阿弥陀仏が聞こえて、「わたし」が南無阿弥陀仏と称えるのが「他力の行」としての念仏であるのに対して、諸仏の南無阿弥陀仏が聞こえていないのに、「わたし」が南無阿弥陀仏と称えるのが「自力の行」としての念仏です。親鸞が「信心はかならず念仏を伴うが、念仏はかならずしも信心を伴わない」と言うのは、向こうから南無阿弥陀仏が聞こえたら、否応なくこちらから南無阿弥陀仏と応答するが、こちらから南無阿弥陀仏と称えるとしても、それに先立って向こうから南無阿弥陀仏と聞こえているとは限らない、という意味です。

タグ:親鸞を読む
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