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無生の忍 [「信巻を読む(2)」その66]

(8)無生の忍

次は『観経疏』「序分義」からです。

またいはく、「〈心歓喜得忍〉といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍にたへん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍(無生法忍のこと。不生不滅、無生の生をさとること)を得ることをあかす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処(無生法忍をえるところ)をあらはさず。夫人をして等しく心にこの益をねがはしめんと欲ふ。勇猛専精にして心に見んと想ふ時に、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信(菩薩の階梯、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の52階梯のうち、最初の10階梯。いまだ凡夫の位)のなかの忍なり、解行(げぎょう、十信の上の十住を解、十行を行という。聖者の位)以上の忍にはあらざるなり」と。

『観経』の「序分」において釈迦が韋提希に浄土の教えを説くに至った経緯が語られるのですが、その最後のところで釈迦が韋提希にこう言います、「あなたは仏力によってかの浄土のありさまをはっきりと見ることができるでしょう、そしてそのとき心に歓喜が生まれ、無生法忍を得ることができるでしょう」と。その部分を善導がここで注釈しているのですが、「いまだ得処をあらはさず」と言われますのは、韋提希はのちに無生法忍を得ることになるのですが、それがどの段階においてであるかはここではまだ明らかではないということです。

無生法忍ということばは、前に引用された第三十四願、いわゆる「聞名得忍の願」に出てきました、「わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持(じんそうじ、深い智慧)を得ずは、正覚を取らじ」と。親鸞は真の仏弟子とは、名号を聞くことにより無生法忍を得ることができたものであるとしているのです。そこでも一通りのことは言いましたが、ここであらためて無生法忍とは何かを考えておきたいと思います。本文のなかに「不生不滅、無生の生をさとること」という短い注をいれましたが、さて「無生の生をさとる」とはいったいどういうことでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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