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無根の信 [「信巻を読む(2)」その118]

(9)無根の信

ここにはひとつの飛躍があります。これまで釈迦の説法を聞いていた阿闍世が突然こう言います、「われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る」と。伊蘭の種子からは伊蘭樹が生ずるしかありませんが、その伊蘭の種子から栴檀樹が生じたというのです。そしてこう言います、「伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり」と。わが煩悩の身から「無根の信」が生まれたということです。釈迦の説法を聞かせてもらうことで、わが心にその気(け)もなかった信心が生まれたというのですが、それが具体的にどういうことかははっきりしません。そこで阿闍世の身に何が起こったのかを考えておきたいと思います。

結論を先に言いますと、釈迦の説法を通して、ある「気づき」が阿闍世に生まれたということです。阿闍世の「気づき」とは何かといいますと、自分は我執という囚われのなかにあるという「気づき」です。その囚われのなかで父王を殺害するというとんでもないことをしてしまったということ、そのことに気づかされたのです。さて我執という囚われのなかにあることに自分で気づくことは金輪際できません。囚われの気づきは自分「に」起こりますが、自分「が」起こすことはできません。その気づきは、囚われのなかからではなく、囚われの外から起こされるということです。阿闍世が「世尊、われもし如来世尊に遇はずは、まさに無量阿僧祇劫において、大地獄にありて無量の苦を受くべし」と言うのはそのことです。

これは囚われのなかにある「わたしのいのち」に遇う(気づく)ことができたということですが、それは取りも直さず、その気づきをもたらしてくれた「ほとけのいのち」に遇う(気づく)ことができたということに他なりません。これまではただひたすら「わたしのいのち」をわが力で生きていると思っていたところに、それを超えた「ほとけのいのち」があることに気づかされたのです。そしてその「ほとけのいのち」に生かされていることにはじめて気づいたのです。これが「われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る」ということです。


タグ:親鸞を読む
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