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「『おふみ』を読む」その26 ブログトップ

第1帖・第4通の前段 [「『おふみ』を読む」その26]

第3回 第1帖・第4通、第5通,第6通

(1)第1帖・第4通の前段

そもそも、親鸞聖人の一流においては、平生業(へいぜいごう)(じょう)の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をもさらに存知せず。くわしく聴聞つかまつりたく候

答へていはく、まことにこの不審もつとももつて一流の肝要とおぼえ候ふ。おおよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、宿善の開発(かいほつ)によるがゆなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさけによりて、本願の由来を存知(ぞんじ)するものなりとこころうるが、すなち平生業成の義なり。されば平生業成といは、いまのことわりをききひらきて、往生治定(じじょう)とおもひ定むるを、一念発起(いちねんぽっき)住正定聚(じゅうしょうじょうじゅ)とも平生業成とも(そく)(とく)往生(おうじょう)(じゅう)不退転(ふたいてん)ともいなり。

問うていはく、一念往生発起の義、くはしくこころえられたり。しかれども、不来迎の義いまだ分別(ふんべつ)せずそうろう。ねんごろにしめしうけたまるべく候

答へていわく、不来迎のことも、一念発起住不退転と沙汰(さた)せられ候ふときは、さらに来迎を()候ふべきこともなきなり。そのゆは、来迎を期するなんど申すことは、諸行の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の(こう)(やく)にあかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり。されば聖人の仰せには「来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆに正定聚に住す。正定聚に住するがゆに、かならず滅度に至る。かるがゆえに臨終まつことなし来迎たのむことなし」といり。この御ことばをもてこころうべきものなり。

(現代語訳) そもそも親鸞聖人の教えでは、平生業成ということと、来迎にとらわれないことが肝要と承っておりますが、それをどのように理解すればいいでしょう。平生業成の意味、また不来迎の意味がよく分かりません。是非とも詳しくお聞きしたいと思います。

お答えします。この疑問はもっともで、わが門流の要をつくものです。当家では「一念発起平生業成」と申しますが、これは平生に「弥陀如来の本願はわれらをたすけてくださるのである」という道理を聞きひらくことです。そして、これは宿善のもよおしによるものであるとこころえるべきで、自分のちからでできるものではありません。不思議な仏智の力によって、本願のことわりを知ることができるのだと了解するのが平生業成に他なりません。ですから、平生業成といいますのは、以上のことを聞きひらくことができることで往生が定まったと思えることであり、これを「一念発起住正定聚」とも「平生業成」とも「即得往生住不退転」ともいうのです。

一念往生発起のことはよく分かりました。しかし不来迎の意味はまだよく分かりません。詳しくお教えください。

お答えします。不来迎といいますのは、「一念発起のときに正定聚に住す」という道理が了解されましたら、もう来迎をまつことはないということです。来迎を期待するというのは、諸行による往生を目指している人たちのことで、真実の信心をえた人は、一念発起のときに、ただちに弥陀の光明に摂取され捨てられないという利益に与るのですから、来迎をまつことはないと知られるのです。というわけで、親鸞聖人は「来迎というのは諸行往生の人の言うことで、真実信心の人は、すでに摂取不捨に与り正定聚の位にいるのです。そして正定聚の位にいるということは、かならず仏になるということですから、臨終を待つことはありません。来迎をたのむこともありません」と言われたのです。このことばからおはからいください。


タグ:親鸞を読む
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