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真実と方便 [はじめての『高僧和讃』(その213)]

(16)真実と方便

 親鸞が『大経』の本質は「即得往生」にあると見たことは、彼が関東の弟子に宛てて書いた手紙文のなかにこの上なく率直に語られています。「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(『末燈鈔』第1通)。さらには善導『般舟讃(はんじゅさん)』のことばを次のように紹介しています、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(同第3通)と。このように親鸞は、臨終を待って往生するのではなく、本願名号に遇えたそのときに往生し、「その心すでにつねに浄土に」あると語っているのです。
 では第19願とその成就文にある「臨終往生」は何かということになりますが、親鸞はそれを方便の教えであるととらえます。そして『観経』そのものも方便の教えを説くと見るのです。真実の教えは『大経』の「即得往生」であり、『観経』そして『大経』のなかの「臨終往生」は真実へ導くための方便の教えであると言うのです。そのことは『教行信証』「教巻」に「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と述べられています(第18願と第19願、そして『大経』と『観経』を「真実と方便」の関係としてとらえることは「化身土巻」において展開されます)。
 かくして親鸞は、道綽・善導・法然と続いてきた『観経』中心主義を、それ以前の龍樹・天親・曇鸞の『大経』中心主義へともう一度転回させるのです。
 では『観経』の「臨終往生」と『大経』の「即得往生」とでは何が違うのでしょう。それは今生この世をどう生きるかということに関わってきます。「臨終往生」とは、人生において決定的な瞬間が臨終のときであるということです。そのときに往生できるかどうかが決まるわけですから、それまでの人生、つまりこの世を生きることのすべてがこの決定的瞬間のためにあるということになります。源信の『往生要集』を読みますとそのことが歴然としていますが、法然の『語録』類においてもその色彩が濃厚です。法然が「念仏の申されん様に」この世を過ごすべきであると言うのも、日ごろから念仏を怠らないようにして後生に備えなければならないと言っているように聞こえてきます。

タグ:親鸞を読む
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