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死後の生まれ変わり [「『正信偈』ふたたび」その40]

(10)死後の生まれ変わり

輪廻の思想が成り立つためには、不滅の「アートマン(自我)」を認めることが前提条件となります。肉体は死とともに滅しますが、滅することがないのが「アートマン」で、これが次の世で別の姿を取る、こう発想するのが輪廻の思想です。さて仏教はこの「アートマン」を否定します。それが仏教の基本中の基本である「無我」ということですが、そうしますとおのずから輪廻の思想も否定されることになります。われらはありもしない「アートマン」を存在するかの如く思い込み、そこから死後の生まれ変わりを妄想することになるのです。このように「無我」をベースとする限り、輪廻は成り立ちようもないのですが、「五悪趣を超える」と言われますと、どうしても五悪趣そのものは存在すると思ってしまうのです。

「五悪趣を超える」とは、現に存在する五悪趣の世界を超えるということではなく、五悪趣の世界という妄想を超えるということです。

もし五悪趣の世界が現に存在するとしますと、それを超えるということは、その五悪趣の世界とは別の世界に行くことになります。こちらに五悪趣の世界、あちらにそれを超えた特別な世界(極楽世界?)があって、こちらからあちらに行くこと、これが五悪趣を超えるということになります。さてしかし、そのように考えるとき、そこには密かに「アートマン」が持ち込まれています。五悪趣のなかをグルグル経廻るのが輪廻ですが、その輪廻の世界を超えることもまたもう一つ高次の輪廻と言わなければなりません。どちらも不滅の「アートマン」がこちらからあちらに行くのですから。

仏教では「生死を超える」とか「迷いの世界を超える」という言い方がしばしばされますが、それもまた「五悪趣を超える」と同じで、こちらの生死の世界からあちらの涅槃の世界に行くことではありません。親鸞の和讃に「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(『高僧和讃』「善導讃」)とありますが、この「生死をへだてける」とは、生死の世界から別の世界に行くことではありません。そうではなく、この生死の世界がそのままで涅槃の世界であることに目覚めることです。これが「生死即涅槃」であり、そして「五悪趣を超截す」ということです。

(第4回 完)


タグ:親鸞を読む
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