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おしへざるに [『教行信証』精読(その164)]

(11)おしへざるに

 ごく当たり前に仏教と言います、「仏の教え」と。しかし釈迦は何かを教えたのでしょうか。前に釈迦は何かを悟ったのではなく、ただ目覚めただけと言いましたが(8)、さらに言えば、釈迦は己の悟ったことを人に教えたのではなく、目覚めたことを証言しただけです。釈迦が何かを悟ったとしますと、その何かを人に教えることができるでしょう、たとえばニュートンが己の悟った万有引力の法則を人に教えたように。しかし釈迦はただ目覚めただけですから、その事実を証言することができるだけで、目覚めたことを人に教えることはできません。
 釈迦はいわば宇宙の願いに目覚め、それを弥陀の本願として語ったのでした。誰でもその証言を聞き理解することはできますが、しかしそれでもってその人が宇宙の願いに目覚めたことにはなりません。それはわれらひとり一人が釈迦の証言を通して宇宙の願いに目覚めるしかありません。ここに悟る(知る)ことと、目覚める(気づく)ことの違いがあります。ある人が悟ったことは、誰にも当てはまることであり、したがってみんなに教えることができますが、ある人が目覚めたことは、その人にしか当てはまらず、したがって誰かに教えることはできません。
 では釈迦の証言とは何か。また同じところに出てきましたが、あらためて証言する釈迦の側とそれを聞くわれらの側の両方から考えてみましょう。まず釈迦ですが、目覚めを経験した釈迦はそれを語らずにいられなかったに違いありません。誰しも、他の人が気づいていないであろうことに自分が気づいたとき、それを周りの人に語らずにいられません。ある日の夕刻、東の空に見事な虹がかかっているのに気づいた妻は、離れた部屋にいたぼくにわざわざ知らせてきたものです、「ほら、空に虹が」と。釈迦にすばらしい気づきが訪れたとき、彼はそれを誰彼となく語りたい衝動にかられたに相違ありません。でも、それは「ほら、虹が」と指し示すことができるようなことではありませんから、誰にどのように語るか大いに悩んだことでしょう。初転法輪をめぐるエピソードはそのあたりの消息をほのかに伝えてくれます。

タグ:親鸞を読む
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