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一念往生、便ち弥勒に同じ [「信巻を読む(2)」その71]

第7回 臨終一念の夕

(1)  一念往生、便ち弥勒に同じ

さらに真仏弟子釈がつづきます。次は王日休の『龍舒(りゅうじょ)浄土文』からです。

王日休(南宋の時代の居士。生まれた土地から龍舒居士という。儒学から、のちに浄土教に帰依、龍舒浄土文を編む)いはく、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致(あゆいおっち、不退、不退転と訳される。かならず仏になることが定まった位。正定聚と同じ)といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便(すなわ)ち弥勒に同じ。仏語虚しからず。この経はまことに往生の徑術(けいじゅつ、近道)、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。以上

『大経』の本質が第十八願成就文にあることが的確に捉えられています。そして成就文は、名号が聞こえて信心歓喜したそのとき、不退転すなわちかならず仏となることが定まるという意味であると述べ、それは「弥勒に同じ」位であると言います。「一念往生、便ち弥勒に同じ」ということばが印象的です。まずきちんと押さえておきたいのは、信心と往生の関係です。成就文を素直に読む限り、信心がひらけるとき「すなはち」往生し、そしてそれは不退転の位につくことであると説かれています。

何度も参照してきましたが、親鸞は『一念多念文意』においてこの文を注釈してこう述べています、「〈即得往生〉といふは、〈即〉はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また〈即〉はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。〈得〉はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを〈往生を得〉とはのたまへるなり」と。

信心=摂取不捨=正定聚=往生という関係がこれ以上はない明瞭さで述べられています。


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救いは「いま」しかない [「信巻を読む(2)」その70]

(12)救いは「いま」しかない

釈迦はマールンクヤにこう言うのです、「そのものが周囲の人たちにこう命じたとしよう、この矢を射たものの氏素性が分かるまでは矢を抜くではないと。汝はそれをどう思うか。汝のしていることもそれと同じではないか。汝がいますぐしなければならないのは、生きる苦しみを抜くことであるのに、汝は死んでからどうなるかということばかり知ろうとしている」と。釈迦がこの譬えで言わんとしていることは、救いは「いま」しかないということです。試しに「あす」の救いということを考えてみたいと思います。「あす」救われるということですが、それは「いま」は救われていないということでしょうか。

確認しておきたいと思いますが、救われるとは、どんな状況にあっても「安心(あんじん)」があるということです。状況によって左右されるのが「安心(あんしん)」ですが、どんな逆境におかれても生きていくことができ、また死ぬことができるというのが「あんじん」です。さていま考えているのは「あす」救われるということですが、これは「あす」になってはじめて「あんじん」が得られるということで、「いま」はまだないということでしょうか。もしそうでしたらそれを「あんじん」と呼ぶことはできません、せいぜい「あんしん」でしょう。ほんとうに「あす」救われるのでしたら、もうすでに「いま」救われているはずです。やはり救いは「いま」しかないと言わなければなりません。

話をもとに戻しまして、現当二益です。今生の利益と来生の利益ということですが、さて来生の利益とは何かという問題です。親鸞は真実の信心があれば「かならず現生に十種の益を獲」と述べていますが、しかしどこにも来生の利益について言及することはありません。現生十益の最後が「正定聚に入る益」で、正定聚に入るとは「かならず仏となるべき身となる」(親鸞の注)ことですから、今生で正定聚となり、来生に仏となると言えるでしょう。としますと現益が正定聚に入る益で、当益が仏となる益ということでいいではないかと言われるかも知れませんが、さてしかし「仏となる」とはどういうことか。それは「わたし」が仏となることではありません。いのちが終わるということは「わたしのいのち」が終わるということですから、「わたし」が仏となることはありません。

今生で正定聚となり、「わたしのいのち」が終わると「ほとけのいのち」に帰っていくのです。

(第6回 完)


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現当二益 [「信巻を読む(2)」その69]

(11)現当二益

この文では「今生に」と「命を捨ててのち」とが対比され、現在において観音・勢至に護られ、未来に浄土へ往生すると言われます。浄土真宗では今生の利益を「現益」、来生の利益を「当益」と呼んで区別していますが、それを用いますと、観音・勢至に護られるのが「現益」で、浄土に往生するのが「当益」ということです。しかしこの「現当二益」という概念自体には根本的な疑問があります。今生の利益は何の問題もありませんが、来生の利益とはいったい何かということです。そもそも来生ということばは、「わたしのいのち」が一旦終わっても、また別のかたちで生まれかわり、つづいていくということを前提としています(来生とは「来る生」です)。しかしすぐ前のところで見ましたように、それは「わたしのいのち」への囚われ以外の何ものでもありません。

『ダンマパダ』のことばでは「すでに自己が自分のものではない」のです。「わたしのいのち」とは仮にそのようなものがあるかのように生きているだけであり、いのちが終わるとともにそのように仮設(けせつ)された「わたしのいのち」も終わります。では「わたしのいのち」が終わるとどうなるのか―「ほとけのいのち」に帰っていくとしか言えません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」として仮説されたままで、すでに「ほとけのいのち」のなかで生かされているのですが、仮設された「わたしのいのち」がなくなりますと、そこには「ほとけのいのち」の海だけが広がることでしょう。しかし死んでからのことは、清沢満之とともに「私はマダ実験しないことであるから、此処に陳ることは出来ぬ」(「わが信念」)と言うべきかもしれません。

この問題を考えるたびに頭に浮ぶのがマールンクヤという青年のことです。彼は釈迦に来世のことについてしつこく尋ねます、来世はあるのか、霊魂は生きつづけるのかなどなどと。釈迦はそれに無言で応えますが(これを「無記」と言います)、いつまでも問うのをやめようとしないマールンクヤに「毒矢の譬え」を持ち出して戒めます、「マールンクヤよ、誰かに毒矢を射られたものがあるとしよう」と。


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人中の妙好人なり [「信巻を読む(2)」その68]

(10)人中の妙好人なり

次は『観経疏』「散善義」からです。

またいはく「〈若念仏者〉より下〈生諸仏家〉に至るまでこのかたは、まさしく念仏三昧の功能(くのう)超絶して、まことに雑善(ぞうぜん)をして比類とすることを得るにあらざることを顕す。すなはちそれに五つあり。一つには、弥陀仏の名を専念することをあかす。二つには、能念の人を指讃することをあかす。三つには、もしよく相続して念仏するひと、この人はなはだ希有なりとす、さらに物(人のこと)としてこれを方(たくら)ぶべきことなきことを明かす。ゆゑに分陀利(ふんだり)を引きて喩へとす。分陀利といふは、人中の好華と名づく、また希有華と名づく、また人中の上々華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華あひ伝へて蔡華(さいけ、蔡は亀のことで、聖人が世に出るとき、白亀が白蓮華に乗って現れると伝えられることから、白蓮華を蔡華という)と名づくるこれなり。もし念仏のひとはすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上々人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四つには、弥陀の名を専念すれば、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護(ようご)したまふこと、また親友(しんぬ)知識のごとくなることを明かす。五つには、今生にすでにこの益を蒙れり、命を捨ててすはなち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり。かしこに到りて長時に法を聞き、歴事供養(りゃくじくよう、諸仏の国土を巡り、諸仏・菩薩を供養すること)せん。因まどかに果満ず、道場(さとりをひらく場所)の座あにはるかならんやといふことを明かす」と。以上

これは、『観経』の最後の部分に「もし念仏するものは(若念仏者)、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友(しょうう、勝れた友)となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし(生諸仏家)」とあるのを善導が丁寧に注釈しています。この善導の文で注目したいのは、「今生にすでにこの益(観音・勢至に護られること)を蒙れり、命を捨ててすはなち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり」という箇所です。


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わたしのいのち [「信巻を読む(2)」その67]

(9)わたしのいのち

われらはみな「わたしのいのち」を生きています。これは「わたしのいのち」であり、その主人は「わたし」であると思っています。このいのちが「自分のもの」であるのは当たり前だと思って生きているのですが、釈迦はそれに対して驚くべきことを言います、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む(わが子が言うことを聞かないと悩み、自分の財産がいつの間にか誰かにかすめ取られたと悩む)。しかしすでに自己が自分のものではない(このいのちは自分のものではない)。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『ダンマパダ』第5章「愚かな人」)と。

まず確認しておきたいのですが、「これはわが子である」あるいは「これはわが財である」と思っていない人はいるでしょうか。そしてまた「これはわがいのちである」と思っていない人はいるでしょうか。おのれに正直である限り、どんな人もみな「これはわが子であり、わが財である」と思い、また「これはわがいのちである」と思っていることを否定できないでしょう。ところが釈迦は、それは「わが子」や「わが財」への囚われであり、そしてその本に「わがいのち」への囚われがあると言うのです。「わが子」や「わが財」などありもせず、そもそも「わがいのち」もありもしないのに、それに囚われて苦しんでいると言うのです。

「すでに自己が自分のものではない」のに「わがいのち」に囚われて生きていると気づくことが無生のさとりです。この気づきは「大いなる力に生かされている」という気づきとしてやってきます。それを浄土の教えは、生きとし生けるものたちに「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」がかけられていると説きます。その本願が光明と名号としてわれらに届いたとき、これまでずっと「わがいのち」を「わが裁量」で生きていると思っていたが、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」すなわち本願に生かされていることに気づくのです。これが無生のさとりです。


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無生の忍 [「信巻を読む(2)」その66]

(8)無生の忍

次は『観経疏』「序分義」からです。

またいはく、「〈心歓喜得忍〉といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍にたへん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍(無生法忍のこと。不生不滅、無生の生をさとること)を得ることをあかす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処(無生法忍をえるところ)をあらはさず。夫人をして等しく心にこの益をねがはしめんと欲ふ。勇猛専精にして心に見んと想ふ時に、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信(菩薩の階梯、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の52階梯のうち、最初の10階梯。いまだ凡夫の位)のなかの忍なり、解行(げぎょう、十信の上の十住を解、十行を行という。聖者の位)以上の忍にはあらざるなり」と。

『観経』の「序分」において釈迦が韋提希に浄土の教えを説くに至った経緯が語られるのですが、その最後のところで釈迦が韋提希にこう言います、「あなたは仏力によってかの浄土のありさまをはっきりと見ることができるでしょう、そしてそのとき心に歓喜が生まれ、無生法忍を得ることができるでしょう」と。その部分を善導がここで注釈しているのですが、「いまだ得処をあらはさず」と言われますのは、韋提希はのちに無生法忍を得ることになるのですが、それがどの段階においてであるかはここではまだ明らかではないということです。

無生法忍ということばは、前に引用された第三十四願、いわゆる「聞名得忍の願」に出てきました、「わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持(じんそうじ、深い智慧)を得ずは、正覚を取らじ」と。親鸞は真の仏弟子とは、名号を聞くことにより無生法忍を得ることができたものであるとしているのです。そこでも一通りのことは言いましたが、ここであらためて無生法忍とは何かを考えておきたいと思います。本文のなかに「不生不滅、無生の生をさとること」という短い注をいれましたが、さて「無生の生をさとる」とはいったいどういうことでしょうか。


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本願に気づくことが救われること [「信巻を読む(2)」その65]

(7)本願に気づくことが救われること

「これこれをするもののみ」ということばに排他性が感じられると言いましたが、それは「これこれをする」という言い回しから、「これこれ」を「する」か「しない」かはそれぞれの意志によると思われるからです。それぞれの意志によるのだとしますと、「しようとする」人は救われるが、「しようとしない」人は救われないというように分断され、そこに排他性が生まれざるを得ません。さて問題は、本願を信じ念仏を申すことはそれぞれの意志によるかどうかということです。「信巻」でこれまで説かれてきたのは、一にかかって、信心も念仏もわれらのはからい(意志)ではなく、如来の回向であるということです。

信心の門も念仏の門も、われらがみずからの意志で入るものではありません、気がついたらもうすでに入っていたのです。

このように見ますと、「本願を信じ念仏を申すもののみが救われる」ということばの印象が大きく変化します。このことばは、気がついたらもうすでに信心し、もうすでに念仏しているもののみがもうすでに救われているという意味になります。逆に言いますと、まだ信心をしていないし、まだ念仏していない人は、残念ながらまだ救われていないということです。だからと言って、そうならば本願を信じ念仏を申して救いに与ろうと思っても、そんなふうにできるものではないことはすでに言った通りで、信心も念仏もわれらの意志でするものではありません。

本願を信じ念仏を申すとはどういうことかといいますと、「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」(本願)が、「ひかり」(光明)と「こえ」(名号)として送り届けられていることに気づいたということです。そしてこの「ひかり」と「こえ」に気づいたということ自体が救われたことに他なりません。しかしまだそれに気づいていない人は、残念ながらまだ救いに与ってはいません。でも「ひかり」と「こえ」は分け隔てなくすべての衆生のもとに送り届けられています。救いはもうすでにやってきているのです、ただそれに気づくかどうかということで、気づかなければ救いはありません。


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ただ念仏するもののみありて [「信巻を読む(2)」その64]

(6)ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る

『往生礼讃』の二つ目の「相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る」は、『観経』「真身観」の「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という経文を下敷きにしており、弥陀の光明は十方世界を隈なく照らすが、しかしその光に摂取されるのは念仏の衆生のみであるということです。次の『観念法門』の「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護(しょうご)して捨てたまはず。すべて余の雑業(ぞうごう)の行者を照し摂(おさ)むと論ぜず」はそのことをもっとはっきり言っています。「ただ念仏するもののみありて」、同じことですが「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて」弥陀の心光は摂取するというのです。

この「念仏する」とか「阿弥陀仏を専念する」とは、ただ単に南無阿弥陀仏と口にするだけではなく、そこに本願の信受がなければならないことは言うまでもありませんが、さてしかし本願を信じ念仏を申すもののみが摂取されるという言い回しに引っかかりを感じないでしょうか。たとえば『歎異抄』第12章には「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」とありますから、信心の人、念仏の人が救われるというのは当たり前のこととも言えますが、しかし「これこれをするもののみ」という言い方には何か排他的な匂いがします。キリスト教においても、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」(「マタイ伝」7章)と言われますが、ここにも同じ匂いがします。

「これこれをすれば、そのもののみが救われる」という言い回しからは「これこれをすること」が救いの条件になっているような印象を受けます。逆に言えば、これこれをしないものは救われないとなり、ある人たちだけが救いの柵のなかに入れてもらえて、その他の人は救いから締め出されることにならないでしょうか。宗教というものはそういうものだと言えばそれまでですが、これまで歴史のなかで繰り返されてきた宗教戦争のもとがこの排他性にあるとすればことは重大です。さて救いには条件があり、それをクリアすれば救われるのでしょうか。


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生死すなはち涅槃なり [「信巻を読む(2)」その63]

(5)生死すなはち涅槃なり

すぐ前のところで「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」という「正信偈」の一節を上げましたが、ここに信心を発することの難しさが遺憾なくあらわれていると言わなければなりません。信心を発するとは「生死すなはち涅槃なりと証知」することに他ならないと言うのですが、この生死の世界がそのままで涅槃の世界であるなどとどのようにして証知することができるでしょう。「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し」と言うしかありません。ぼくとしては、しばしばコインの表と裏という譬えを持ち出して、この「生死すなはち涅槃なり」を説明するのですが、さてこれでどこまで納得してもらえることか、はなはだ心もとないと言わざるを得ません。

結局のところ、ある「気づき」があるかどうかというところに行きつきます。それがありさえすれば「生死すなはち涅槃なり」がすんなりと腹に収まる、ある「気づき」。それが「大いなる力により生かされている」という気づきです。

浄土の教えではその「大いなる力」に「本願力」という名が与えられ、さらに「大いなる力」が「こえ」としてわれらのもとに届けられることが「名号」という名で表現されますが、それらはすべて「大いなる力により生かされている」という気づきをあらわすためのメタファーです。そしてその気づきが信心とよばれるのです。この気づきがあったからといって「わが力で生きなければならない」ことはこれまでと何の変わりもありませんが、しかし「わが力で生き」ながら、それがそっくりそのまま「大いなる力で生かされている」と気づいているのです。「わが力で生きよう」とするところに生死の世界がありますが、それがそのまま「大いなる力で生かされている」ところに涅槃の世界が広がります。かくして「生死すなはち涅槃なり」となります。

みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し」という善導の有名なことばについてもうひと言。「みづから信じる」ことと、「人を教えて信ぜしむる」ことは別のことではありません、ひとつです。みずから「大いなる力に生かされている」と気づいたとき、もう否応なくその気づきを他人に伝えたくなっています。それは「わがはからい」ではなく、大いなる力自体のはからいです。往相も還相も如来の回向ですから、往相はそのままで還相です。


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難きがなかにうたたまた難し [「信巻を読む(2)」その62]

(4)難きがなかにうたたまた難し

次は『往生礼讃』と『観念法門』からです。

またいはく(往生礼讃)、「仏世はなはだ値(もうあ)ひがたし。人、信慧(しんね、信心の智慧)あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとす。みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し。大悲弘くあまねく化する、まことに仏恩を報ずるになる」と。

またいはく(往生礼讃)、「弥陀の身色(しんじき)は金山(こんぜん)のごとし。相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る。まさに知るべし、本願もつとも強(こわ)しとす。十方の如来、舌を舒(の)べて証したまふ。もつぱら名号を称して西方に至る。かの華台(蓮華の台座)に到つて妙法を聞く。十地の願行(十地…菩薩道の第41位から50位まで‐の菩薩の願と行)、自然に彰(あらわ)る」と。

またいはく(観念法門)、「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。すべて余の雑業の行者を照し摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁(観念法門に上げられる五種増上縁‐すぐれた功徳をもたらす五つの因縁。滅罪増上縁、護念増上縁、見仏増上縁、摂生増上縁、証生増上縁‐の一つ)なり」と。以上

『往生礼讃』の一つ目の文は本願念仏の法の難しさについて述べます。正信偈にも「弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」とある通りで、これは浄土の教えにおいてしばしば取り上げられる論題です。念仏門は易行道であるとされ、「陸道の歩行(ぶぎょう)はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし」(「易行品」)と言われる傍ら、本願を信楽受持することの難しさがこれでもかと強調されます。本願を信楽することができれば、あとは「水道の乗船」のごとく、これほど易しいことはないのですが、本願を信楽することそのものが「難のなかの難、これに過ぎたるはなし」です。

 


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