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無条件の平等 [「親鸞とともに」その63]

(6)無条件の平等

世の中の現実の平等は条件付きの平等であるのに対して、本願の平等は無条件の平等であると言いました。ひとこと付言しおきますと、救済に条件が付けられることにより、その宗教には排他性が忍び込み、他の宗教との争いの種となります。この条件を満たしたものは救われるということは、それを満たさないものは救いから除外されるということで、宗教によりその条件が異なりますから、互いに他を否定することになるのです。かくして世に平和をもたらすはずの宗教が争いを生むことになります。

さてしかし、救済に条件がないとしますと、たとえ本願を信じ念仏しなくても救われるということになりますが、そうしますと信心=念仏にはどんな意味があるのかという疑問が出るかもしれません。ひいてはその宗教自体にどんな意味があるのかと問われるかもしれません。心配御無用、大いに意味があります。信心=念仏とは本願にわれらが何かをつけ加えることではありません、ただ本願に気づくことです。そして本願はそれに気づいてはじめてその姿をあらわしますから、信心=念仏があってはじめて本願の救いに与ることができるのです。念のため、もう一度言います、信心=念仏がなくてもわれらは本願に救われています。しかし、信心=念仏がないということは、そのことに気づいていないということです。

さてこのように本願の救いは無条件に平等です。一人ひとりみな違い、その間に優劣の差がどれほどあろうと、そんなことは関係なくみな平等に救われます。これは、一人ひとりの間にどんなに優劣の差があっても、みなひとつにつながっているということに他なりません。そのひとつにつながったいのちが「ほとけのいのち」であり、そこでは「四海のうちみな兄弟」です。そのように「みな兄弟」であるなかで、劣等感=優越感が起こるでしょうか。兄は優秀な頭脳の持ち主で、弟には知的障害があるとしましよう。そのとき兄は弟に優越感を懐くでしょうか、弟は兄に劣等感を懐くでしょうか。そんなことは考えられません。兄弟はお互いの違いを認めつつ、兄は弟を親身に助け、弟は兄を心からたよるに違いありません。


タグ:親鸞を読む
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